ひよこねこ

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結婚において『愛』と『お金』、どっちが大切?

 

『結婚』という、男女問わず人生において重要な「通過点」であり

 

ある種の「到達点」であり、「ゴール」とさえ呼べるものを語る上で

 

必ずといって俎上に乗せられ、問題とされる「二大要素」が

 

「愛情」と「資金力」であり、すなわち

 

結婚において、『愛』と『お金』はどちらが大切か?

 

という命題である

 

『結婚』というテーマを扱うときに、必ずといっていいほど取り上げられ

 

街頭インタビューや雑誌のアンケートなんかにも頻繁に訊かれ

 

世の女性たちにとっても、欠かすことのできない話題である

 

そのどちらを選択するかで、まるで回答者の「人格」や「人生観」

 

さらには過去の経験や生い立ちさえも明らかになってしまうような

 

そんな、ある種「哲学的」な問いかけとさえ思えてくる

 

 

けれど、この問いについては少々「欠陥」がある

 

それは、この『対比』が正確性と厳密性に欠け

 

全く「異なるもの」を無理やり、同直線上で比較しているという点だ

 

 

まず『数量と測定』においてだが

 

「お金」というのは物質的なものであり、その多寡を容易に算定することができる

 

銀行残高は目で見ればわかるし、物価のそれなりに安定した国であれば

 

その変動をとりあえず無視して、「基準」を設定することもできる

 

強いて問題を挙げるならば、その「基準」が人によって違い

 

それによって同じ金額であれど、その「価値」が異なるということくらいだろう

 

 

それに比べて、「愛」というのは感情の一種であり

 

当然のことながら「不可算」なものであり

 

その多寡はあくまで、数量的な基準によるものではなく

 

「ある」か「ない」か、あるいは「大きい」か「小さいか」という

 

漠然とした主観的な「概算」による判断である

 

つまりその測定において、そもそも「数量的可視化」は不可能であり

 

「○○より好き」「○○より嫌い」という比較こそあれど

 

そこに「基準」を設定することは本来ナンセンスなのだ

 

 

次に、『定義の曖昧さ』においてだが

 

『愛』も『お金』も、そのどちらも人生において重要なものであるのは間違いない

 

だからこそ、その二つの言葉には多くの「同義語」や「類義語」が存在する

 

『愛』はその種類において区別されることもあれば

 

区別されたそれらを「一つのもの」として扱う場合もある

 

上記の問いにおいてはもちろん、「恋愛」におけるそれなのだろうが

 

それにしたって立場や関係性が変われば、「家族愛」などと容易に形を変える

 

そして、恋人間の愛情と家族間における愛情が全く別のものであるかといえば

 

そんな事はなく、それらは一部置換可能であり、変動可能なものだ

 

 

『金』についてもそれは同じで

 

上記の問いについては、主に「資産」を指すのだろうが

 

「資産」は「費用」の前段階であり、「収益」によって形成されるものだ

 

それは『愛情』と同じく、流動的なものであるし

 

微分的観点で、それらを定義することはやはり難しいのだ

 

 

そして最後に、『過程と結果』において述べるなら

 

『愛』というのはすなわち『過程』であり

 

『金』というのは『結果』という見方ができるだろう

 

つまり、まず前提として「結婚したい」という願望があって

 

『愛』はその前段階、あるいはその過程によって形成されるものであり

 

『金』はあくまで結果として、その判断の基準となるものである

 

すなわち、それらは本来「不可分」なものであり

 

容易に切り離して、考えることのできないものなのだ

 

 

それでも、なぜこのような「対比」がいまだに議論され

 

あたかもそれらが「対義語」であるかのように偽装されるのかというと

 

それは上記の問いが

 

『理想』と『現実』を対比したものだからだ

 

 

「結婚」というある種の『幸福』、そこには「理想」と「現実」とが内包されている

 

そしてやはり本来「不可分」であるはずのそれらを

 

強引に「二つに分けてみる」という考えが

 

問いの「本質性」を担保しているのだ

 

だからこそ、容易に『愛』と答える者は「空想家」であり

 

容易に『金』と答える者は「現実主義者」であるというレッテルが貼られ

 

つまり、この正解のないように思える問いかけに対する唯一の「正答」は

 

そもそも「答えを出さない」か「悩んだ末にどちらかの回答をする」

 

という、どちらかになってくる

 

 

さて、ここで『金』というものについてもう少し深く考えてみる

 

(『愛』について掘り下げるのは僕には無理だ)

 

「結婚」についてのみならず、人生の様々な面において

 

『金』は重要なものであり、時に「制限」の要因となり得る

 

『金』とはつまり、価値の体現であり視覚化である

 

「お金が大好き」という者がいたとして

 

彼ないし彼女は、たとえば

 

「一万円札に使われている紙、この手触りがたまらない!」とか

 

「五百円玉のこのフォルムが最高にカッコいい!」とか

 

「一円玉のこの光沢が美しい!」などと言っているわけではない

 

あくまで、資産としての『貨幣』を気に入っているのだ

 

つまり、あらゆる『価値』に変換可能かつ、風化によって失われない

 

その『交換可能性』と『半永久的持続性』を重視し

 

あくまで比喩的に「お金が大好き」と言っているのだ

 

 

つまり『お金』の価値とは、対価として支払い何かを得ることで初めて

 

『幸福』を生み出す、一つの『手段』にすぎないわけである

 

そして、その『手段』はいかようにも代替可能であり

 

たとえば、金を使わなくても「楽しいこと」は体験できるし

 

逆にいくら金を積もうとも、場合によっては「つまらない」体験となる

 

そして、「誰と使うか」によって

 

やはりその価値と可能性は大幅に変動する

 

 

だからこそ「結婚」について考えるとき

 

単に『愛』と『金』とを強引に分割して考えるのではなく

 

そのどちらも、あくまで自分の『幸福の手段』として

 

想像し、選択し、あるいは工夫していくことが

 

よりあなたを『結果』に結びつけるのではないだろうか

 

 

『詐欺』に騙されないための思考法、そのヒント

 

我々は誰だって『騙され』たくはない

 

『騙される』ことはつまり、『期待を裏切られる』ことであり

 

それは結果として「物理的」、「精神的」な『不利益』を被ることになるからだ

 

 

だからこそ我々は『警戒』し、あらゆる「事象」や「情報」について

 

その『真偽』を見極めようと試みる

 

けれど、それは容易なことではない

 

発信者が「騙そうとする意図」=『悪意』がある場合はもちろんのこと

 

たとえそれが『善意』とまでは呼べないにせよ

 

発信者当人が「信じ込んでいる」場合

 

あるいは当人にとっては『真実』であろうとも

 

果たしてそれが、自分にとっても『真実』になるとは言い切れず

 

『真偽』はしばしば、「相対的」「客観的」な指標に左右されるものであるからだ

 

 

そうした中、我々唯一『自己防衛手段』として用いる方法は

 

全てを疑ってかかること

 

であり、「君子危うきに近寄らず」という先人の有難い教えの通り

 

つまり、「疑わしいものには、そもそも近づかない」という

 

『リスク』を最小限に抑えるために、時に『リターン』をあえて無視する

 

というやり方だ

 

「上手い話には必ず『裏』がある」

「『タダ』より高いものはない」

 

といった言葉を、行動規範の根本的思考にすえる者も多く

 

その考えは、商業的にもそれほど間違ったものではないだろう

 

 

けれど、そうしたある種『完全無欠』に思える『自己防衛』の方法にも

 

やはり「リスク」というものは内包される

 

それは『機会損失』という言葉に示されているように

 

「利益」を選ばないことが、そのまま「損失」に繋がるという『リスク』だ

 

 

本来得られたであろう「利益」(それは経済的もののみを表すものではない)を

 

得られなかったことは、単に利益の「非獲得」あるいは「未獲得」に過ぎないが

 

我々はそれをしばしば「損失」と考えてしまいがちである

 

「あの時ああしていれば、こうしていれば」という仮定は

 

『後悔』へと形を変え、精神的な「損失」を生むことに繋がる

 

 

そうした、「損失の経験」こそが

 

次なる状況、機会における『疑念』を生み、『判断』を鈍らせ

 

やがて完全無欠の「自己防衛手段」は、おのずから『瓦解』してゆく

 

そして『詐欺』の手法というのは度々、そうした『精神的綻び』を巧みに突いてくる

 

 

では、我々は一体どのようにすれば

 

『真偽不明』の情報から真実のみを抽出し

 

「騙される」ことから身を守ることができるのだろう?

 

はっきり言って、一概にその方法を断定することはとても難しい

 

予め断っておくが、この記事を一読しただけで

 

全ての詐欺から身を守れるかというと、もちろんそんな上手い話はない

 

(それこそ立派な『詐欺』である)

 

けれど、何かしらの指標を考察し、それを元に『判断材料』を構築することはできる

 

そこで今回の記事は、「情報発信者」=「騙そうとする者」と仮定し

 

彼らがどのような手法を用いて他者を欺こうとするか

 

彼らの立場に立って考えてみることで

 

逆説的に「騙されないためには、どうすればいいのか?」について考えてみよう

 

 

まず、「真偽」に関わらず、他人を『勧誘』しようという意図のある広告において

 

よく使われる手法は大別して、『三つ』ある

 

それは『限定』と『優位性』と『利害の一致』だ

 

前者二つは、我々の『利得感情』を強烈に刺激し

 

後者は、我々の『信頼』を的確に担保する

 

 

『限定』とは主に、「期間」や「数量」によるもので

 

「期間限定!!」や「数量限定!!」「〇名様、限定!!」

 

という広告文句に、消費者である我々が弱いことは言うまでもない

 

それらの宣伝文句が謳われるということは

 

何かしら広告主にとって、『限定』にしなければならない要因があるのだと推察し

 

あるいはそれは「利幅の縮小」であったり、「供給可能の限界」であったりと

 

様々な理由が考えられるが

 

だからこそ相手の「利幅の縮小」は、自分にとっての「利幅の拡大」であり

 

「供給可能の限界」は、「希少性の付与」と思い込んでしまう

 

だが、ここで問題なのは

 

上記で挙げた二つの要因について

 

我々がその「度合い」を合理的に算定することが不可能なことだ

 

そもそもその商品にどれだけの「利幅」があり

 

どれだけの「供給」が本来可能であったかを知るのは実質不可能であるし

 

そこに「比較可能性」を見出すこともまた難しい

 

『限定』とはつまり相手にとっての基準にすぎず、自分にとっての指標ではないのだ

 

 

次に『優位性』について考えてみる

 

けれど、その言葉について「直接的」に表現されている広告を見る機会は少ないだろう

 

「当社の製品は、他社の製品より優れています!!」

 

なんて広告を打ち出す企業はいない

 

(その理由については様々だが、おそらくお察し頂けることだろう…)

 

それでも『優位性』は表現を変え、必ず広告に含まれている

 

というより、それこそが広告における最大の要素であり

 

「『優位性』を示さない広告は、もはや広告ではない」とさえ言えるかもしれない

 

あるいは、一つ目にあげた『限定』もまた

 

ある種では『優位性』の表現が変化したものかもしれない

 

そして『優位性』は主に、「価格」「機能性」によって訴求される

 

だが、それ自体は何ら問題ない

 

なぜなら、そこにはきちんと『比較可能性』が存在し

 

その情報自体が『嘘』である場合を除き

 

我々は自らの意思で「比較」し、「選ぶ」ことができるからだ

 

問題はその優位性が、『情報優位性』にのみ言及されている場合だ

 

つまり「『知っている』ことが優位性を持ち、『知っている』から得をする」

 

という論理だ

 

その論理構築自体は、決して間違いではない

 

「『智』とは最大の財産であり、誰にも奪われないものだ」

 

という『アセット』の名言にもあるように、「知っている」ということは

 

時に、何においても最大の武器となる

 

だがそれにしたって、一体どれだけの者が「知っているのか?」という比較無しでは

 

優位性の判断はできない

 

そして、もう一つ

 

『知』と『智』は別物であり、「知る」ということが

 

そのまま「智の獲得」になるとは限らないということだ

 

確かに「新たな情報を仕入れる」=「知る」ことで選択肢は増えるかもしれない

 

けれど、それによって「正しい判断ができるか」というのは、また違う問題なのだ

 

「知らないほうがいいこともある」とまでは言わないが

 

人間が感情性の動物であり、どうしたって主観を排除できない以上

 

かえって、知らないほうがより客観的に物事を判断できる場合もあるだろう

 

そうした理由から、『情報の優位性』のみを売りにした広告というものには

 

まずはそれ以外の、『優位性』について考えてみるべきかもしれない

 

 

最後に『利害の一致』についてだが

 

これについては、前述で「前者」と「後者」として分けたように

 

先の二つとは、やや毛色の異なるものだ

 

つまり、「限定」と「優位性」が我々の『利得感情』を刺激する

 

いわば、『攻め』としての要素であるのに対して

 

『利害の一致』とは、どちらかというと『守り』についての要素であるということだ

 

 

そもそも我々がなぜ『騙される』ことを恐れ嫌うのかというと

 

それは冒頭で挙げた通り、『損失』を避けたがる傾向にあるからだ

 

そして、「自分がそうであるからこそ、他人もそうであろう」という同化は

 

ごく当たり前の論理であり、結論であるように思われる

 

「『損』をせず、『利』を得たい」というのはお互い様であり

 

だからこそ、「無償の奉仕」や「一方的な利得」というものを我々は警戒する

 

そこからくる感情が「『タダ』より高いものはない」という言葉であり

 

「本当に『タダ』であるはずはないのだから、そこには何らかの『嘘』がある」

 

と考えるのだ

 

その考えは一見まともであり、警戒心として至極真っ当であるように思う

 

だが、そこに「落とし穴」がある

 

 

遥か昔、我々が「騙される」ということにある種、寛容であり

 

それに対する警戒心や意識が低かった頃には

 

しばしば『タダ』を謳い文句にした詐欺が横行した

 

だが、人類はやがて学習した

 

それは、様々な動物が自己防衛のために

 

「毒」や「天敵」を見分ける方法を会得したように

 

「『タダ』という『疑似餌』こそ、最大限に警戒すべき」という考えに至ったのだ

 

だが、自種族が進化すると共に天敵もまた進化することが、生物界の理であるように

 

「騙される側」が警戒し、その対処法を学べば学ぶほど

 

「騙す側」もまた学び、より高度な手法を駆使するのである

 

「『タダ』が怖い」というならば

「『タダ』である」という事実を解消してやればいい

 

それこそが、現代における「詐欺の手法」において最も多用されるものである

 

ここで重要なのは、『利害の一致』とは

 

あくまで『金銭』や『経済的価値』のみを指すものではないということだ

 

そして同時に、『利益の譲受』というのは

 

当事者間のみならず、「第三者」によっても行われるということだ

 

 

例えば、このブログは読者にとって「有益な情報」を発信するためにある

 

(果たして本当に有益であるかについては、読者の判断に委ねる)

 

読者は閲覧に際して、何かしらの費用を要求されることはないし

 

筆者が、この記事を書くことで得られる経済的利益は今のところ『0』だ

 

だが、それでもなぜ筆者がこのブログを更新し続けられているかといえば

 

正直そこには、「自分の考えを他人に知ってもらいたい」という承認欲求や

 

ある事象や物事における「自分の観点の意外性」についての優越感など

 

そうした『自己満足』があるからだ

 

さらに、このブログのトップにも挙げているように

hiyokoneko13.hatenablog.com

 

将来の『収益化』を見込んで、それを目指しているという理由もある

 

そして、その『収益』とは読者から直接的に得られるものではなく

 

アフィリエイトなどによる「第三者からの利益」という間接的なものである

 

もしも、このブログが読者にとって少しでも「有益なもの」であると思って頂けるなら

 

筆者は「タダ」でこの記事を提供していることになる

 

そして、警戒心を抱く読者に、筆者はこう弁明する

 

「あくまで『自己満足』のためなのだ」

 

あるいは「第三者からの利益のためなのだ」と

 

すると、一部の読者は安心し、警戒心を解くことだろう

 

「なんだ、ちゃんと相手にも利益はあり、

 

たまたま『利害が一致』しただけなのだ」

 

と、だからこそ

 

「このブログにおいて読者を騙し、意図的に不利益を与えるような事はないだろう」と

 

だが、それこそが『罠』なのだ

 

なぜならば、その思考には

 

「筆者が閲覧数を稼ぐために、ただ耳に馴染みが良いだけの『嘘』を流している」

 

という、真の意味での『利害の不一致』については考慮されていないからだ

 

 

「我々は、『真偽不明』な多くの情報の中で日々生きている」というのは

 

これまでの記事においても述べてきたことである

 

だからこそ、我々はより警戒心を持ち、時に「疑いの目」をもって

 

情報を取捨選択していかなくてはならない

 

だが、そのためには単に「警戒心を持つ」だけでは不十分であり

 

警戒心を抱くにたる『根拠』を明確にしていくことが不可欠である

 

最初にも断っておいたが、この記事を読んだからといって

 

全ての『根拠』を得られるわけではなく

 

「騙される」ことから常に身を守れるわけでは決してない

 

それどころか、果たしてこの記事が真に「正しいもの」であるかさえ分からない

 

 

ちなみに、この記事において

 

明らかな嘘を『一つ』(あるいは一つではないかもしれない)混ぜておいた

 

それもまた、「どんな情報をも、手放しで信用するには『リスク』が伴う」

 

ということの証明であり、「全てを疑うこと」にはそれなりの危険が伴うが

 

「全てを信じること」は、それ以上に危険であるという教訓だ

 

 

『言語の違い』の広義での適用こそが、人間同士の『潤滑性』を生む

 

今回も僕自身のある「体験」から、記事を始めさせて頂こうと思う

 

 

これは、ある某有名レンタルDVD屋(誰もが一度は利用したことがあるはず)での

 

「店員」と「客(年配の方)」との『やり取り』である

 

 

客「ビデオを借りたいんだけど…」

 

客である「おじいさん」は数本のDVDを抱えて、レジを訪れた

 

売り場から、パッケージ(ダミー)ごと持ってきていて

 

DVDの入った透明のケース(マスター)だけを持ってくればいいことを

 

知らない様子である

 

(DVDを「ビデオ」と呼称していることについて、ここでは特に言及しない)

 

店員「いらっしゃいませ」

 

年配の客においてはよくあることなのだろう

 

店員は当然のようにマスターだけを抜き取り、ダミーをレジの後方に置いた

 

店員「〇カードはお持ちでしょうか?」

 

店員はやはり当然の如く、『マニュアル通り』に訊ねる

 

客「えっ?持ってないけど…」

 

おじいさんとしては、『サービスの一環』とくらいにしか認識していない

 

カードの有無について、当たり前のようにそう答える

 

店員「では、お作りになられますか?」

 

それもやはり『マニュアル通り』の対応なのだろう

 

サービスの提供に『必要不可欠』なカードを所持していない『新規の顧客』に対して

 

カードの作成の新規の入会を提案する

 

客「いや、大丈夫です」

 

そう答える客にやや困惑した様子の店員は

 

店員「カードがないと、レンタルサービスはご利用頂けませんが…」

 

すると今度はおじいさんの方が困惑した様子で

 

客「時間掛かるの?」

 

店員「いえ、二、三分程度で済みます。身分証はお持ちですか?」

 

そして、おじいさんは渋々といった様子で身分証を取り出し、手続きを始めた

 

 

僕はそのおじいさんの後ろに並んでいたが

 

隣のレジが空いたのでそちらに通され、無事に本を買うことができた

 

 

さて、この僕の「体験」と呼ぶには大袈裟な、「日常的によくある風景」から

 

何を学ぶことができるだろう?

 

 

双方の立場に立って正当性を主張することは、それほど難しくはない

 

店員の立場にとってみれば、「マニュアル通り」の対応をしたにすぎず

 

客であるおじいさんの立場にとってみれば、訊かれた事に対して素直に答えただけだ

 

そのどちらが間違っているというわけではなく、「ズレている」というわけでもない

 

双方の一つ一つの発言を切り出してみると、確かに「ヘンなところ」には思い当たる

 

その一例をピックアップしてみると

 

そもそも、店員は必要不可欠であるカードの作成による「入会」について

 

あたかも客に「選択の余地」があるように、訊ねるべきではなかったかもしれない

 

けれど、店員からすれば質問口調はあくまで「提案」としてであり

 

「強制」を和らげる手段として用いられたものなのかもしれない

 

その店員からすれば、レンタルサービスの提供にリスクは付きもので

 

身元不明の者に貸し出すわけにはいかず

 

だからこそ身元確認は必要不可欠であり、そのための「入会」という手続きは

 

ごく当然のことであり、たとえ自分が店員という立場でないにせよ

 

『周知の認識』であると思い込んでいる

 

そして、それは確かに僕自身を始め、多くの利用者に理解されていることでもある

 

 

では、この一連の「やり取り」において

 

どうしてこのような、ある種「無駄」とも思える会話がなされたのだろう?

 

店員を「マニュアル人間」と批判するべきなのか

 

あるいは、年配の客を「老害」と認定するべきなのか

 

違う

 

 

これは単に、両者の『認識の違い』によるものであり

 

その認識の違いを僕は便宜上

 

『言語の違い』

 

と呼んでいる

 

それについて詳しく解説する前に、もう一つ違った例を挙げてみることにする

 

これはドラッグストアでパートをしている僕の母親の体験であり

 

その愚痴を聞かされた時のものだ

 

 

僕の実家はわりと「田舎」のほうにあり

 

(田舎とはいっても、その言葉を聞いて多くの方が想像するような

 

田園風景の広がる「田舎」ではなく、ただ単に「都会」との比較において

 

あまり栄えていない「人口過疎地」としての田舎である)

 

そういった地域において「ドラッグストア」というのは

 

「スーパーマーケット」あるいは「コンビニエンスストア」を内包し

 

かつ「医薬品」も取り扱っているということで

 

主婦から高齢者に至るまで、その需要はかなり高い

 

そして「医薬品」というのは、その取扱いにおいて

 

「コンビニ」などで簡単に買えるものもあれば

 

病院などで処方箋を出してもらわなければ、手に入れることのできないものまで

 

実に様々である

 

「ドラッグストア」で扱っているものでも

 

売り場に置いてあって、そのままレジで売れるものもあれば

 

販売の際に担当者の「説明」が必要なものもある

 

(レジの後方に置いてあるものなんかがそうだ)

 

そして、その「説明」は法律によって定められたものであり

 

販売者や消費者の独断で省くことはできないものだ

 

だが、自分にとってあまり「有益」とは思えない説明というのは

 

余計に長く、「不要」と感じるものだ

 

それについて、母親は僕に愚痴をこぼしてきた

 

その母親の愚痴から、僕が想像した「やり取り」は以下のものである

 

 

店員「こちらの医薬品の販売については、担当者の説明が必要です」

 

(正しい文言であるかは分からない、あくまでニュアンスとして)

 

店員「説明をお聞きになられたことはありますか?」

 

客「ないけど、大丈夫」

 

ここで店員である母親はやや困惑する

 

店員「薬事法に則り、説明がないとお売りできないのですが…」

 

(そんな固い言い方ではないかもしれない)

 

客「何回も使ったことあるから分かるよ」

 

客はやや面倒くさそうに言う

 

店員「では、その時に説明を聞かれませんでしたか?」

 

客「覚えてない」

 

店員「では、一応説明させて頂きますね」

 

そこで母親は半ば強制的に担当者を呼び、説明をしてもらった

 

そして、客は渋々それを聞き流した

 

 

この「やり取り」についても

 

どのような『認識の違い』があるのかを見ていこう

 

 

まず店員にしてみれば、当然「薬事法」における詳細な条文を知っているわけではなく

 

あくまで、「一部の医薬品には説明が必要」という認識だ

 

「それをしないと、法律で罰せられる」と上司に言われたかもしれない

 

「強い薬だから」と、その理由については納得したはずだ

 

次に客にしてみれば、その薬は毎回使っているものであって

 

その使用法については箱に書いてあるだろうし

 

たとえそれを読まなかったとしても、用法用量を著しく間違えなければ問題ない、と

 

「経験による判断」によって、認識している

 

当然「薬事法」なんて難しいことは分からないし

 

たとえ何かしらの副作用が現れたとしても

 

それは「自己責任」だから大丈夫というわけだ

 

だが、この「自己責任」というものが実にくせ者で

 

法律によっては、全てを自己責任という言葉で完結することはできない

 

 

たとえば、「酒類」の取り扱いにおいて

 

未成年者や運転者への提供が

 

法律によって厳しく制限されていることは言うまでもない

 

そのための手続きとして「確認」が必要であり

 

万が一それを省いたとして、受領者の「自己責任」として

 

債務(義務)の不履行の正当性を主張することはできない

 

 

だからこそ、店員としては省くことのできない「義務」として

 

「説明」を提案したのであって

 

それは法律による「強制」でもある

 

だが、客(この例に挙げた一部の者)にとって

 

それは「権利の行使」としての「説明責任」であり

 

その必要性については、選択可能なものである

 

そうした両者の「認識の違い」が

 

双方にとっての不利益を生むことになる

 

それは店員にとっての「困った客」による

 

客にとっての「面倒くさい店員」による、『時間の浪費』だ

 

 

ではそうした「やり取りの無駄」あるいは「お互いの消耗」を避けるためには

 

一体どうするべきであり、どういった『考え』が必要なのだろう?

 

それは

 

『認識の違い』について、常に自らが認識しておくことだ

 

それはごく「当たり前」のことのようであり

 

自分と他者の「違い」については、誰もが「分かっているつもり」である

 

けれど我々はしばしば、「少しの違い」において

 

それらは「同じもの」と扱ってしまう傾向にある

 

『差別』の根本とは、何か? - ひよこねこ

 

の記事でも述べたことではあるが

 

膨大な情報を整理するための手段として

 

「カテゴリー」の分別は必要不可欠であり

 

その機能が時として「同化」を生み出すことは厳然たる事実である

 

だからこそ我々は人種や民族、あるいは『言語』による分別のみならず

 

世代間や立場、個々の『認識』による『違い』について

 

より深く、寛容に理解しなくてはならない

 

 

例えば、道を尋ねてきた「外国人」に対して

 

日本語で、辺りの地理を理解していることを前提にして説明したりはしない

 

可能であればその言語で、あるいは共通語としての英語で話し

 

まずは目視できる目印を起点として、説明を試みるだろう

 

その説明について、たとえ相手が理解できなかったとして

 

それはあくまで『言語の違い』を原因として

 

相手に対して批判的な考えは持たないはずである

 

 

では、「同じ言語を話す者同士」ではどうだろう?

 

「会員証」「薬事法

 

それらは『共通の言語』としての役割を十分に果たしているだろうか?

 

それだけではない

 

「Aセット」「日替わりランチ」「ドリンクバー」

 

多くの消費者にとっては『当たり前』の用語であっても

 

一部の者にとってそれは、意味不明の用語ではないだろうか?

 

そして、そうした「認識の違う」両者の間で交わされる「やり取り」は

 

もはや「違う言語」による会話であり

 

だからこそ僕はそうした「認識の違い」を

 

『言語の違い』と呼ぶことにしている

 

そこには、どちらか一方の「落ち度」や「不手際」があるわけではなく

 

ただ単に、それまでの経験やそれに伴う認識についての『相違』があるだけである

 

 

我々は『多様性社会』の中に生きている

 

そして『多様性』とは前述の通り、大まかな「カテゴリー分け」だけのものではない

 

人それぞれが違うように、多様性とは人の数だけ存在する

 

それを十分に理解し、相手の立場に立った『言語』を用いることで

 

人間関係はより円滑に、摩擦を減じた「潤滑性」が増すことになるのではないだろうか

 

 

『差別』の根本とは、何か?

 

今日は少し、ディープな内容というか

 

人類における『最大の問題』であり

 

あるいは、世界で起きているあらゆる問題の『根本』とも呼ぶべきものについて

 

扱わせて頂くことにする

 

 

それは『差別』について、だ

 

 

その言葉を聞いて十分お分かり頂けるように

 

この『テーマ』について語る以上

 

どうしたって、センシティブな記事になってしまうことは必定である

 

筆者としてはここで述べる文章については

 

もちろん最大限に配慮させて頂くつもりだが

 

それでも自らの勉強不足のためか、あるいは認識不足のため

 

予期せずに一部の方を傷つけてしまうかもしれない

 

だが、最初に断っておくが

 

この記事において(全ての記事がそうであるつもりなのだが)

 

特定の民族、文化、考えを否定し、貶めるつもりはないこと

 

それだけはどうかご理解願いたい

 

 

前置きがやや長くなってしまったけれど

 

これについては、どうしても省略することは出来なかった

 

それでは、まず自身の体験から

 

差別意識』について考察することで

 

いよいよ本題に入っていこうと思う

 

 

ある日、僕がバスに乗っていると

 

三人組の『外国人』が乗ってきた

 

おそらく中国か韓国、アジア系の訪日客と思われるその乗客は

 

両手に大荷物を抱え、バスの中央部の席に

 

前一人、後ろ二人という形で陣取った

 

そこが『優先席』であることに、何ら問題はない

 

バスは空いていて、僕を含めて「立っている者」は一人もいなかったし

 

彼らの座った席以外にも、空席は他にいくらでもあった

 

ただ彼らは乗り口から近いその席を、たまたま選んだというだけなのだ

 

 

やがてドアが閉まり、バスが動き出す

 

すると、その訪日客は何語かよく分からない言語で

 

『大声』で会話を始めた

 

何を話しているかは当然わからない

 

おそらく、次の行先やこれまで居た場所についての感想を語っているのだろう

 

我々日本人が観光で他国を訪れたとき、よくする会話であると推察した

 

それ自体はやはり何の問題でもない

 

だが問題は(それも『問題』というほど騒ぎ立てるべきものではないかもしれないが)

 

その外国人の声が必要以上に大きく

 

(それも僕の主観であり、客観的な根拠は存在しない)

 

バスの最後方の席に座った僕の耳にも届き

 

それどころかバス全体に響きわたる音量であったことだ

 

 

ただ声が聞こえてくるだけなら別に構わない

 

けれど、彼らの会話の節々に挿入される『リアクション』はいちいち大きく

 

その度に発せられる嬌声や感嘆符に

 

空白時間を読書で潰していた僕は気を取られ

 

ついには読書を断念してしまった

 

そして、しばらく遠目に彼らの様子を観察することを暇潰しの材料に選んだ僕の心には

 

「爆買い」や「インバウンド」というワードが浮かび

 

あまりポジティブとはいえない思考が訪れてしまった

 

 

そして目的地までの旅路を彼らと共に過ごしている最中、ある瞬間にふと

 

こんな考えが浮かんだ

 

もし彼らが、僕らとほとんど見た目の同じ『黄色人種』でなかったなら

どう思っただろうか、と

 

そして、その思いつきは僕に「差別の根本は何であるか?」について

 

ある重要な示唆を与えてくれた

 

差別の根本は『違うこと』ではなく、『同じだと思い込むこと』にある

 

 

それは僕がそんな「日常的によくある体験」を通して

 

自身が感じ、あるいは『戒め』として自らの胸に刻み込んだ言葉だ

 

つまりは『差別』とは決して『違う』から起こるのではなく

 

自分たち(集団)と『同じ』

 

あるいは『同じであるべき』と思い込むからこそ発芽するものなのだ、と

 

 

(これについては人によって感じ方は違うかもしれないし

 

ここでする僕の『比較』こそ、「差別的内容」を多分に含んでいるのかもしれないが)

 

もし仮に、バスに乗ってきたのが「黒人」や「白人」であって

 

そこで交わされる言葉が「英語」や、ヨーロッパ圏の言語であったなら

 

僕はそれほど不快に思わず、あるいは読書を継続することだって出来たかもしれない

 

理解できぬ言語(それは「中国語」であろうが「韓国語」であろうがそうではあるが)

 

を『雑音』として聞き流し

 

『観光客』が浮かれているだけだと

 

寛容な心持ちでやり過ごすことだって出来たかもしれない

 

なぜなら、彼らは元々リアクションが大きく

 

「公共の場においては静粛にすべき」という文化を持たない民族であると

 

どこかから仕入れてきた情報によって、『知っているつもり』であるからだ

 

(その一方的認識についても、『差別』の要素は含まれているのだが)

 

だから僕は、母国語を話さなければ一見して「外国人」と分からない

 

「他国の文化」に生きる者に、ネガティブな感情を抱いてしまったのである

 

 

そうした僕自身の『無意識な嫌悪』には

 

実は、あらゆる場面における『差別的感情』

 

そして、それを元に行われる『差別的行動』

 

の基本原理が隠されているのではないかと思う

 

 

人類を問わず、あらゆる生物には『差別意識』が潜在している

 

それは「種の繁栄のため」「外敵から自衛するため」

 

あるいは「食料か否かを判断するため」に

 

『違い』を見分け、『区別』することは

 

生物の生存にとって重要な能力である

 

だからこそ我々人類にとっても、その『能力』は必要不可欠なものである

 

だが「毒性植物」が自らの種の繁栄のために擬態するように

 

「よく似た別の何か」というものにこそ

 

我々はその能力を最大限に発揮しなければならず

 

「よく似ているけど、違う」というものに対して

 

我々は、より警戒を強めるのである

 

 

例えば、いかにも「悪人」そうな人物に対して、最初は警戒心を抱くものの

 

一度その予想が裏切られれば、手放しに「善人」だと思い込んでしまうように

 

逆に、いかにも「善人」そうな人物に対しては

 

たとえその人物が真なる「善人」であったとしても

 

そう簡単には疑念を払拭できないように

 

我々は、「自分と違う」(あるいはそう考える)ものについて

 

最大限の警戒をするのではなく

 

むしろ「自分と似ているけど、違う」ものにこそ

 

より深く注意を払うものなのだ

 

 

我々日本人は立海の孤島、島国であるからこそ

 

『差別』という問題については、どこか他人事のような

 

「他国の問題」のようなイメージを持ちがちである

 

実際、アメリカのような『多民族移民国家』のように

 

あらゆる民族の暮らす国土ではなく

 

「外国人」というのは、せいぜいクラスに一人いるかいないかくらいのものだ

 

だからこそ、我々は『差別の意識』などなく

 

同じ日本に暮らす『国民』を

 

「自分と同じであるべき」とつい思い込んでしまいがちだ

 

 

よく漫画やアニメなどで

 

「この下等生物が!」とか「動物並だな」という悪役の台詞があるが

 

それは本当にそう思っているからではなく

 

むしろ「自分と同じであるべきであるのに、違う」

 

という意識から生まれる言葉なのではないだろうか

 

動物や虫などにわざわざ、「お前たちは『人間』じゃない」とは言わない

 

それと同じで、かつてのアメリカでそうであったように

 

「黒人は『奴隷』だ」という考えには

 

「同じ人間だけれど、自分より『劣っている』」という

 

自分との比較が含まれている

 

(『家畜』にわざわざそんなことを言う者はいない)

 

 

我々は周知の通り、同じ地球、同じ世界で暮らす

 

生物学的に見れば『人類』という同種の仲間である

 

けれど、『個々の違い』については十分に認識しているつもりだが

 

それでも、おおよそ『同じであるべき』という誤解からは解放されないでいる

 

それは「人種」のみについてそうであるわけではなく

 

「男女」や「身体的特徴」、「信仰」に至るまで

 

「自分と似ているけれど少し違う」ものについて

 

しっかりと『違い』を認識し、それを受け入れていくことが

 

『差別』あるいは『いじめ』といった

 

人類根本の問題を解決することに繋がるのかもしれない

 

 

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就活における『学歴』の意味とは?

 

もう間もなく、三月からいよいよ来年度卒の大学生の『就活』が本格的にはじまる

 

(とはいえ「インターンシップ」や一部の「説明会」など

 

あるいは「エントリーシートの書き方講座」など、『準備』はすでに始まっている)

 

着慣れないスーツを身にまとい、希望と不安を抱えながら集団で歩く学生たちの姿は

 

ある種の「風物詩」を思わせる

 

「どこの企業が『ブラック』」だとか「志望動機はこんな風に言えばいい」など

 

学生たちの間で、真偽の入り混じった情報が飛び交う中

 

やはり皆の思うところは同じで

 

「とにかく『内定』を確保したい」「良い企業に就職したい」など

 

将来への不安をできるだけ早く、より確実に払拭したいというのが本音だろう

 

 

そのために、学生たちは普段あまり考えることのない自らの『長所』に目を向け

 

「謙虚であるべき」という日本の風土とは正反対にも思われる

 

『自己PR』を作成し、自分という『人財』を企業に売り込むことに必死になる

 

そこで、学生時代の様々な経験や実績を「企業向け」にまとめ上げ

 

「サークル活動」や「アルバイト」から

 

何かしら『武器』として語れる『経験談』はないかと模索する

 

あるいは『人柄』など、大学時代のみならず

 

それまでの人生で培ってきた自己の「性質」や「性格」を

 

何とかして『自己PR』の糸口にならないかと、やや強引に「パッケージ化」する

 

 

だがそうして、無理やり作り上げた『自己PR』や『志望動機』を読み返してみると

 

「本当にこんなものでいいのか」「あまりに凡庸過ぎやしないか」と

 

『他者との比較』において、ますます不安になり

 

そこで『一般性』を持ち、ある種の『絶対性』を持つ「武器」として思いつくのが

 

『資格』と『学歴』である

 

 

思えば、これほどまでに簡潔で説明がしやすく、誰から見ても明らかな「武器」はない

 

けれど、『学歴』については無論今さら変えることはできないし

 

『資格』にしたって、優位性のあるものを取得しようとするには

 

やはり、それなりの「勉強」を必要とされるし

 

ただでさえ就活やゼミで忙しい中、今さら短期間でそれを得ることは難しい

 

 

そこで学生たちは「もっと『資格』を取っておけば良かった」と学生時代を振り返り

 

大学受験以来、実に三年ぶりに『学歴』というものについて考える

 

それについて「今さら遅い」とか「もっと頑張らなかったお前が悪い」

 

なんて言うつもりはない

 

人間誰だって「喉元過ぎれば熱さを忘れる」どころか

 

「喉元に来なければ熱さを知らない」

 

のであって、まだ訪れていない『将来』に向かって

 

何かを実行するというのは、そう簡単にできることではない

 

だからこそ、「喉元を過ぎた熱さを知る」親の言葉はただ煩いだけで

 

「もっと勉強しなさい」というある種の『正論』は

 

かつての自分の耳には入りつつも、心までは響かなかった

 

(『正論の扱い方』については以下の記事を参照)

「お客様から給料を頂いている」は間違い? - ひよこねこ

 

 

だから僕はここで『正論』を煩く述べるつもりも

 

ましてや就活について、偉そうな『講釈』を語るつもりもない

 

ただ、ふと疑問に思った『学歴』というものの有用性について

 

この記事では、僕なりの考えを書いてみようと思う

 

 

『学歴』は必要なのか?

 

その問いかけに対しては、もう数十年も前から論議されてきた

 

「必要ない」という者もいれば、「いや、間違いなく必要」という者もいる

 

だが、いまだに日本が『学歴社会』であることは厳然たる事実であり

 

いわゆる「大企業」における採用は、基本的に『大卒』を前提とし

 

『高学歴者』を多く採用する傾向にある

 

(と思われている、僕は大企業の人事担当ではないので真実は分からないが)

 

そういった意味で、就活において『学歴』というのは

 

やはり一定の「価値」を持つものと考えることができるだろう

 

ならば問いを変えよう

 

どうして企業は採用において、『学歴』を重視するのか?

 

『学歴』とはつまり

 

「ある教育機関の入学試験を突破し、数々の中間試験を経て、卒業できた者」

 

に与えられる称号である

 

そういった意味では、基本的に『試験』に担保される『資格』と

 

あまり変わらない種類のものに思える

 

だが、数々の資格がある一分野についての知識を問い

 

その分野においての一定のスキルを認めるだけのものであるのに対して

 

『学歴』というのは、多岐にわたる「五科目」を入口にして争われる

 

「総合スキル」なのだ

 

もちろん分野の幅も広く、大学になるとよりその分野は狭くなる傾向にあるが

 

それでも「学問」というものは深く、当然その全てを網羅できるはずもなく

 

「総合スキル」といいつつも、その知識はいわば

 

「学問の上澄み」をすくっただけの半端なものに過ぎない

 

ならば、そんな半端な知識が果たして社会に出て本当に役に立つのだろうか?

 

確かにその分野について「全くの無知」であるより、いくらかマシなのかもしれない

 

けれど、多くの学生たちが自分の学部とはおよそ無関係な

 

「営業職」に進むことから鑑みても、やはりその答えは明らかだ

 

 

ここで、はっきりと断っておくが

 

僕は別に『学歴』というものを否定的に見るつもりはないし

 

それが全くの無意味だとは思わない

 

なぜかと言うと、それは僕がこの記事で語る

 

『学歴』の本当の意味とは何か?

 

についての、二つの観点からの僕なりの想像と考えからお分かり頂けると思う

 

 

まず一つ目についてだが

 

それは『学歴』というものが、個々の「努力」を適切に反映したものである

 

という事実だ

 

いわゆる『難関大学』の試験に受かるためには

 

「勉強」という名の努力を欠かすことはできない

 

日々の積み重ねにより知識を習得し、反復によってそれを定着させる

 

それは『努力』以外の何物でもない

 

中には「自分は元々できが悪い」などと

 

自らの地頭の悪さを引き合いに出し、「才能」を言い訳にする者もいる

 

確かに、一度聞いただけですんなり理解できる者もいれば、そうではない者もいるし

 

「理解力」や「記憶力」という能力も、勉強において無関係とは言い切れない

 

だが、「スポーツ」や「芸術」といった分野に比べると

 

才能の介在する余地はやや少なく(もちろん、かつての発明家や発見者は別である)

 

だからこそ、義務教育から続く教科の延長として

 

狭義な意味での「勉強」というものが、より「公平性」を持ち

 

個々の能力を量る一般的な「指標」として

 

努力によってある程度はどうにかなるものとして

 

「テスト」に用いられ、その点数が「試験」の合否を判定する基準に使われているのだ

 

 

だから『学歴』というのはつまり

 

「どれだけ努力し」、また「どれだけ努力できる人間か」

 

という、個人の「性質」を表すものであり

 

あるいはそこに学部などの分野は関係なく

 

「総合スキル」とは言ったものの

 

それは『資格』のように「結果としての技術」を求めるものではなく

 

いわば、そこに至るまでの「過程」を評価したものなのだ

 

 

日本の大学における頂点として「東京大学」があり

 

「東大生」と聞くと、畏敬の念を持ちながらも

 

そんな彼らの不祥事や、将来性についての疑問が度々ニュースになったりもする

 

「東大生のくせに」とか「東大まで行ってその程度か」などと

 

やや批判的に扱われることも少なくはないが

 

それらは、一つの象徴的アイコンとして「東大」をブランド化するからであって

 

個々の性質とは無関係であり

 

「学歴」もまた個人の持つ多様な性質の中の「ほんの一つ」に過ぎないのかもしれない

 

だからこそ、我々は「東大生である」という『結果』についてのみ批評するのではなく

 

彼らのそこに至るまでの努力の「過程」については

 

少なくとも純粋に評価すべきなのではないだろうか

 

 

そして、それは東大のみならず、他の大学’(それが難関大学かに関わらず)においても

 

その入学試験を突破するに要した労力については認めるべきで

 

よく『大学生』と聞くと、「飲み会」「合コン」「サークル」などに終始し

 

「遊んでばかりいる」みたいな印象を持つ方も多く

 

中には、「酒に酔わして女性をレイプした」などというニュースも聞き

 

もちろんそれについては、批評するまでもなく論外であるが

 

少なくとも、彼らは一年に数度のテストのためにそれなりの努力をし

 

その大学に入るために(あるいは滑り止めだったのかもしれないが)

 

センター試験と大学入試を突破してきたのだ

 

「ウェーイ!」と居酒屋で盛り上がり、やたらと大声で楽しそうに叫び笑う

 

彼らからは想像がつかないかもしれないが

 

そんな彼らも「センター試験」の緊張のためにノイローゼ気味になったり

 

「模試」の結果に一喜一憂し、あるいは将来の不安から涙を流した者だっているはずだ

 

だからこそ、そんな彼らの人生における「暫定的な評価」として

 

その者全てを表すものではないにせよ

 

『学歴』というものが、企業の選考の一つの基準となるのではないだろうか

 

 

それと、もう一つ

 

これについては、僕がふと思っただけの事であり

 

あるいは事実とは全く異なる、いわばただの「妄想」かもしれないが

 

あくまで話半分に、「こんな観点もあるのか」と聞き流してもらいたい

 

「『学歴』がなぜ企業の採用について意味を持つのか」について

 

企業側からの目線でこう考えてみるとする、それは

 

企業が学歴を重視するのは、そこに支払われた『資金』を必要とするからだ

 

というものだ

 

(何度も言うが、これは事実とは異なるかもしれない、という事を断っておく)

 

技術の進歩には、日々の「研究」が不可欠であり、そのためには莫大な資金がかかる

 

ではそれを誰が出すのか?

 

もちろん、企業単位で「研究費」を捻出し、日々研究に勤しむ「部署」もあるだろう

 

だがそれはいわば即物的

 

自社の利益に貢献する技術に対する研究というのが前提であって

 

たとえば「量子力学」や「宇宙論」の研究など

 

一見すると、あまり利益には結びつかないと思われる

 

あるいは、いずれ役に立つにしても遠い未来のことに思われる研究に

 

一企業が莫大な資金を出すのは、あまり現実的ではない

 

では、そうした研究は不要かといえば、もちろんそんなことはなく

 

それは言わば、人類全体の繁栄や認識に繋がる重要なものだ

 

そうした即利益に結びつかない研究をしているのが

 

国の研究機関であったり、『大学』であったりする

 

前者については、その運用費は国税で賄われたり

 

一部の企業からの援助によって賄われている

 

後者についても、国からの援助はあるだろうが

 

もちろんそれだけで成り立つはずもなく

 

その資金の一部となっているのが、学生の「学費」であり

 

同時にその学生たちの将来の実績に対する「前受金」なのだ

 

だとするならば、大学における「高い学費」というのはあるいは

 

人類の『叡智』に対する投資

 

と換言することができるのではないだろうか

 

だからこそ、『学歴』というのはいわば「投資者リスト」のようなものであり

 

もし仮に、企業が「大卒」を選考基準から完全に外したとなると

 

やはり大学に進学する者は少なくなり、ひいては大学の収入が減り

 

「高学歴」を評価の対象から無くしたとすると

 

より高度な学問を志す者が減少する

 

そのどちらについても、「人」「物」「金」において

 

人類の叡智における重大な損失

 

になりかねない

 

だからこそ、企業は「大卒者」や「高学歴者」を積極的に採用することで

 

いわば間接的に、大学に「研究費」を援助しているのではないだろうか

 

 

上記にあげたものは、筆者の妄想であるかもしれない

 

だが、大学の学費が高いのは言うまでもない事実である

 

そして、その高額な費用は

 

学生個人やその親がどう考えたところで、増減するものではない

 

ならば、今大学に在籍している学生(就活生を含めて)

 

あるいは、これから大学に進学する高校生たちは

 

どうせなら、自分の支払う「人類への投資金」に

 

少しくらい自身への見返りを求める権利があり

 

それは『学歴』という、ただ一つの称号だけではとても割に合わない

 

だからこそ、大学という教育機関

 

あなたが何を学び、何を得るのかがより大切なのだ

 

大学には、充実した教育設備が整っている

 

普段あまり行くことのない、大学図書館には無数の蔵書があり

 

「単位が取りやすいかどうか」で判断される教授の授業は

 

社会人になってから「セミナー」という形で受講するとそれなりの金を取られる

 

それに「教授」というのは、英訳するとその名の通り

 

その分野における「プロフェッショナル」なのだ

 

それらをどう使い、より「投資の成果」を上げるか

 

あるいは、その投資金をドブに捨てるかは

 

あなたの日々の「学び」に掛かっている

 

 

『愛国心』の正体とは何か?

 

この記事を始める上で、最初に二つの質問をしてみたい

 

 

まず、一つ目の質問 

 

「あなたは自分が『選ばれし人間』であると思っているだろうか?」 

 

まるで『中二病』かどうかを診断するテストみたいだ

 

そもそも『選ばれし人間』という定義自体が曖昧で

 

それは何かが「優れている」とかいった具体的なものではなく

 

たとえ優れているとしたって、どういった「範囲」で「どれだけ」といった

 

比較的数値さえ不明で、あまりに漠然とした「問いかけ」である

 

 

ちなみに筆者はこの質問に「イエス」と答えてしまう

 

それはやはり僕が数十年前に「中二病」を発症し

 

未だにその完治に至っていないゆえであり

 

「ではその根拠は?」と問われれば、途端に返答に窮してしまう

 

 

そして、二つ目の質問

 

「あなたは『愛国心』を持っているだろうか?」

 

そう訊かれると、確かに自分の生まれた国はそれなりに気に入っているし

 

今のところ別の国に移住する予定はなく、きっと死ぬまでそうだろうし

 

だからといって「『愛国心』があるか?」と問われると

 

自国の「政治」には不満があり、自国の全てを手放しに「愛せるか?」というと

 

そういうわけでもない

 

それに『愛国心』という言葉には、何だか不穏な空気が含まれているようで

 

あるいは「過激な集団」への勧誘を受けているみたいで

 

見ず知らずの相手に「自分は愛国心があります」と主張するのには

 

いささかの抵抗を感じてしまう、という方もいることだろう

 

 

一見無関係に思える、上記の二つの問いだが

 

実はそれらは、ある一人の「偉人」の名言(本当に言ったのかは定かではないけれど)

 

においては、密接に関係している

 

 

「『愛国心』とは、自分がたまたまそこに生まれたという理由で

その国が他より優れているとする信念のことだ」

byジョージ・バーナード・ショー

 

 

その名言は『愛国心』という正体についての適切な認識ではないかもしれないが

 

愛国心』という感情について、実に的確に皮肉っている

 

つまり

 

「あなたが『たまたま』そこに生まれたから『というだけの理由』で

その国が他より『優れている』」

 

というのは、まさに自己を中心とした世界観である『中二病』的な考えである

 

(その偉人の時代には、おそらくその言葉はなかっただろう)

 

 

だが、その名言はある観点においては正しいと言えるかもしれないが

 

別の観点から見れば、必ずしもそうではないと思う

 

それは、人間誰しもが『愛着』という感情を持ち合わせているからだ

 

 

人は自分の「長年使っている物」や「長年付き合っている者」や

 

「長年住んでいる場所」に愛着が湧くものだ

 

そこには『他』との比較はなく、むしろ比較がないからこそ

 

その感情が持続し、さらなる愛着をもたらすのである

 

 

ではそういった「愛着」と呼ばれる執着に起因する

 

愛国心』(あるいはそれに近い感情)と

 

かの偉人の言う『愛国心』との、一体何が違うのだろう?

 

その答えは、すでに上述の文章の中に示されている

 

 

それは

 

別の何かと『比較』するかどうか、だ

 

 

もしあなたが自国と他国を比較し、その結果として愛国心を叫んでいるのなら

 

その信念は、やはり論理的ではない「感情論」ということになってしまう

 

自国と比較して、経済状況や政治情勢が劣っていると感じる国があるかもしれないが

 

ある一点においては自国より「優れている」国を見つけることはたやすく

 

全てにおいて優れている国(それは人や物についても同義だが)は存在しない

 

それでもあなたが

「自国が他国より優れているから、愛国心を持つ」

というならば、それはもはや主観による感情であり、「中二病」と何ら変わらない

 

(別に『患者』を否定しているわけではない、前述の通り筆者も闘病中の身である)

 

 

だからこそ我々は、自国を評し愛する上で

 

他者である『他国』との比較を持ち出すべきではなく

 

愛着に起因した、あくまで『個人的な理由』として

 

その感情を語らなければならないのだ

 

つまりは、「ノロケ」である

 

 

そして「ノロケ話」も度が過ぎれば、やはり他人の気分を害してしまう

  

例えば、自分の恋人について語る上で

 

「『ノロケ話』になっていないかどうか」については、細心の注意を払う部分である

 

「きっと聞かされた方は、あまり良い感情を持たないだろう」と客観的に判断し

 

あくまで「『冷静』であろう」と務める

 

だが、国家を「恋人」と比喩するならば

 

それについて語るとき、客観性を失いつい冷静さを失ってしまうのは

 

国家が他の者にとっての「恋人」であり、同じ感情を共有できる「仲間」がいるからだ

 

だからこそ多勢に組み込まれ、「自らの意見」を「多くの意見」を代表するものとして

 

声高々に叫んでしまうのだ

 

 

そして、そうした感情に起因する行動原理というのは

 

何も『愛国心』についてのみ、その効果を発揮するものではない

 

例えば自分の『趣味』について語るとき

 

そこに同じ趣味を持つ、絶大なる「支持者」を得たつもりになって

 

つい「主観」と「客観」が置換されてはいないだろうか?

 

自分の「個人的な考え」を「大いなるもの」として語っていないだろうか?

 

その論理のすり替えは、つまりは強力な後ろ盾を得ただけの

 

ノロケ」に過ぎないのかもしれない

 

 

僕は今のところ日本に在住しているし、将来的に海外に移住するつもりもない

 

その理由としては、外国語を会得する根気がなく

 

外国の「習慣」に親しむ自信がないからでもある

 

けれど「世界遺産」など、島国にはない「壮大な絶景」には興味があるし

 

「いつか行ってみたい」という感情はそれなりにある

 

それでもやはり、絶景のある場所というのは人里離れた場所であることも多いし

 

アクセスの困難さを乗り越えてまで、そこに至りたいとまでは思わない

 

だからこそ、『日本』という住み慣れた場所をそれなりに気に入っているし

 

『日本』という国家に、それなりの愛着を持っている

 

それに、この国における「伝統」や「文化」についても誇りを感じている

 

けれどそれは「他国と比べてどうだとか」ではなく

 

あくまで『個人的な意見』として語られるべきであり

 

そこに他者をねじ伏せる『理論武装』は不要なものだ

 

 

そして、わが国が築きあげてきたそれらの「文化」や「伝統」も

 

僕自身の功績などでは決してなく

 

「自国」と「自分」という、「集合」と「個」を分けて考え

 

自身もそれを享受する「他者」であることを

 

強く心に刻まなければならないのではないだろうか

 

 

「お客様から給料を頂いている」は間違い?

 

飲食店をはじめとする『サービス業』の店長や社員が

 

朝礼のときなんかに、バイトに向けて言う「決まり文句」に以下のようなものがある

 

 

 すなわち

「我々は『お客様』から給料を頂いているのだ」

 と

 

 

いくらバイトであれ、サービス業に従事する者において

 

常に心に留めておくべき『金言』であり『当たり前の心構え』であるように思えるが

 

「お金というものの本質」あるいは「価値の移転」という意味から考えると

 

やはり『間違っている』と指摘せざるを得ない

 

 

「お金」とはその『流動性』、換言すれば『交換可能性』に価値があるのであって

 

それは時には「資産」となるし、あるいは「費用」や「収入」の手段として

 

『取引』における様々な場面において、その意味を『変化』させるものだ

 

「消費者」の持つ『お金』は、使わなければその時点では「資産」であり

 

商品や役務のための対価として使用されれば、その時点で「費用」となり

 

同時に、受け取った側(企業など)にとってそれは「売上」として認識される

 

そして短期的、長期的に関わらず、一時的には企業にとっての「資産」となり

 

それを原資として、材料費、労務費、経費などの「費用」が支払われることになる

 

 

そういった観点から見れば

 

「売上」及び「利益」をそのまま、「費用」である『賃金』だと換言するのは

 

あまりに短絡的というか、過程を省きすぎている気がする

 

そんなことを言い出せば、そもそもの発行元に遡って

 

「我々は日本銀行から給料を頂いている」ということになってしまう

 

 

とまあ、『揚げ足取り』はこのくらいにしておくとして…

 

 

その決まり文句が「お金というものの本質」を表すために用いられているのではない

 

ということくらい誰だって分かる

 

あくまで比喩として、心構えとして

 

「お客様への『感謝』を常に忘れないように」という意味で用いられている

 

だとするならば、その言葉は紛れもない『正論』であるし

 

どこにも「間違いはない」ように思える

 

 

だが、果たしてそれを聞かされた「バイト」はどう思うだろうか?

 

もちろん、その『金言』を自分の胸の

 

「いつでも取り出せる部分」に置いておける者だっているだろう

 

もしあなたの店の「バイト」が皆そうであるならば

 

きっと素晴らしい店になることだろう、間違いない

 

だが実際は

 

「だからなんだ、そんなことより時給を上げてくれ」と

 

口には出さないけれど、心の内でそう思う者もいれば

 

「あくまで労働の対価として賃金を得ているのであって

 

何もせずに『頂いている』のではない」と

 

別の『正論』を用意する者だっているだろう

 

(僕が冒頭でそうしたように…)

 

 

『正論』とは正しいがゆえに、どこまでも「正しすぎる」がゆえに

 

どうしたって『反論』の術をなくさせ

 

無理な反論は論理性を失った「言い訳」に成り下がってしまう

 

かといって「『正論』だから納得できる」というほど

 

人間は器用なものではなく

 

自らの考えや行動原理を全て論理的に説明できる者はいないだろう

 

だからこそ

 

『正論』はその使い方について最大限配慮し、留意しなければならない

 

つまり、いかに「正論」であろうと

 

使われる状況、使う相手、使い方を誤れば

 

それはただ「反論」を許さないだけの、「暴論」になってしまいかねない

 

そして、そんな正論の使い方ばかりしていると、人は「付いて来て」はくれない

 

 

では上記の「お客様から給料を頂いている」という正論の扱い方において

 

その「状況」「相手」「方法」について、一体何を間違っていたのだろう

 

 

もし仮に、同じ言葉が「入社式」において「社員」に向けて

 

発せられる言葉であったならば

 

その「正論」は「納得できる考え」として理解されたことだろう

 

それは、両者の『利害』が概ね一致しているからだ

 

「社員」において、自分の収入元である「会社」の存続はまさしく死活問題だ

 

だからこそ、その「会社」の収入元である「お客様」は欠かすことのできない存在だし

 

それらの関係性を比喩した「正論」は、まさしくその通りである

 

 

けれど、それならば同じく収入元を「会社」に依存している「バイト」だって

 

『同じ考え』ではないのかと思われるだろうが、そうではない

 

なぜなら「バイト」は、「社員」に比べてその依存度が低くなる傾向にあるからだ

 

つまりは「いつだって辞めて」「別のバイトを見つけられる」という環境にあり

 

それはいわゆる『就活』に比べて『バイトの面接』が

 

いかに簡易的なものであるかを考えてみてもわかる

 

企業における『採用』について

 

「売り手市場」「買い手市場」なんて言葉がよく用いられるが

 

アルバイトにおいては、よほど時給が高く、人気のあるものでなければ

 

基本的に「人員不足」に起因する、売り手市場だ

 

 

そして、その『意識の差』が雇用形態

 

つまり「短期雇用」か「長期雇用」を原因とするものかというと、それも違う

 

なぜならば昨今、特に人手不足の叫ばれる「サービス業」においては

 

よほど人間的に問題のある者(遅刻や欠勤を繰り返す、など)でなければ

 

「短期雇用」とはいえ、実際は「長期雇用」と大差はなく

 

「学生アルバイト」ならば、「卒業」までがおよそ雇用の期限となり

 

「フリーター」ならば、その店舗の存続がそのまま期限となる

 

AIなどの発達によって『無くなる仕事』が話題になってはいるが

 

短期的な目で見れば、それによって減るのは次の「バイト募集」であって

 

今いる「バイト」がクビになることはあまり考えられず

 

そもそも「学生バイト」は、元々「卒業」までの限定期間的雇用を求めているのだし

 

歴の長い「フリーター」は、万が一「人員削減」が行われたとしても

 

自分にその番が回ってくるのは、「バイト募集」が消滅し

 

卒業する「学生バイト」を次々と見送ってからになる

 

そして「学生バイト」「フリーター」そのどちらも

 

『次のバイト』を見つけるのは、条件を事細かに指定さえしなければ

 

そんなに難しいことではない

 

 

だからこそ、「バイト」というのは

 

『企業の存続』について、それほど深くは考えておらず

 

(もちろん全員がそうではない)

 

今の「雇用先」を失うことは、そこまで深刻な問題になり得ず

 

あくまで「次のバイトを探すのは面倒」とか「また一から仕事を覚えるのは大変」

 

くらいにしか思っていない

 

そんな中で、企業の存続の重大な要素である『お客様』を

 

自分の収入元として持ち出されたところで

 

その「正論」は響かない、ということになってしまう

 

 

それにバイトにとっては「売上が上がろうが下がろうが知ったことではない」

 

というのが本音である

 

むしろ、「売上が上がる」というのは総じて「忙しくなる」ことであり

 

どうせ同じ時給であるならば、「ラクできる」方が良く

 

忙しくない方が「儲けもの」であるのだ

 

 

そのように「バイト」と雇用主である「企業」には

 

『対立』とまではいかないまでも、それなりに『利害の不一致』が存在する

 

ではその「隔たり」をいかにして無くしていくか

 

それについて考えるにはまず

 

『相手』である「バイト」の立場に立って考える必要がある

 

 

もし仮に、『時給制』ではなく『歩合制』によって

 

「バイトの給料」を決めるならば

 

バイトの『やる気』は、それなりの向上が期待できる

 

だがその場合、本来の「時給制」よりもその給料を高く設定しなければならない

 

法律において「最低賃金」というのは保証されているし

 

それを抜きにしても、最低賃金のみを保証し

 

「売り上げの増加」を評価要素として賃金にプラスするならば

 

それなりに「達成可能目標」でなければ、バイトの意欲は失われるし

 

それなりに高い「手当」でなければ

 

元々「時給が高い」別の企業を安全に「バイト先」に選ぶことだろう

 

そして、そもそも「どれくらいの売り上げ」を

 

「当人たちの頑張りの結果」として評価するのかは難しく

 

業種によっては「前年比」などで簡単に求められる数字ではない

 

 

ここで『責任』というものについて、それぞれの立場において考えてみる

 

会計学には『責任会計』という考え方が存在する

 

それについての説明は難解なため省かせてもらうが

 

要はそれぞれの職位、企業における立場において

 

どこまでの『会計的責任』を負わせるかというものである

 

(以下に示すものは『責任会計』という会計学用語的意味においてはやや外れる)

 

例えば「経営者」においては、もちろんその会社の『利益』に責任を持つことになる

 

簡潔に言えば『収益-費用=利益』であり

 

その計算式における「収益」「費用」において責任を持ち

 

その結果である「利益」について最大限の責任を負う

 

『営業利益』『経常利益』『純利益』など

 

それぞれの段階によって「利益」は認識されるものであるが

 

「経営者」においては、最終利益である『純利益』にその責任を負う

 

一方、いわゆる「雇われ店長」においては

 

「自店の売り上げ」について責任を負うべきである

 

もちろん「人件費」という名の労務費や、「材料費」を差し引いた

 

「自店の利益」についても責任を負うべきでもあるが

 

例えば「食材の高騰」など、「材料費」を圧迫する『価格差異』や

 

最低賃金の引上げ」などの、「労務費」の『賃率差異』について

 

いち『雇用者』である店舗責任者に、その責任を押し付けるのは理不尽である

 

なぜならば、雇われ店長は自ら「売価の設定」や「メニューの設定」

 

あるいは場合によっては「賃金の設定」の決定権を与えておらず

 

本部によって一方的に決められるそれらの要素を

 

「決められた費用」として、そこから生み出される『利益率』を高めていくには

 

それなりの「制約」を受けざるを得ないからである

 

そして、店舗責任者の「利益優先主義」が全面に押し出されれば

 

あるいは「利益の合理化」によって

 

「費用削減のための売り上げ最適化」が決定され

 

ひいては「会社全体にとっての損失」になりかねない

 

だからこそ店舗責任者である「店長」には

 

『純粋な利益』は求められず

 

あくまで「売上」と、そのために用いた「廃棄量を含めた材料費」と

 

「『賃率差異』をある種無視した『時間差異』」が

 

その評価に用いられるのだ

 

 

では「バイト」においてはどうだろう?

 

バイトには、上記の通り『利益』はもちろん『売上』さえも責任とはならない

 

そもそも『責任会計』という考え方は、ある種「末端」であるバイトには適用できない

 

『バイトの責任』とは何だろう?

 

それは「シフトを埋める」ということだ

 

「自らの指定された時間において、自らの労務を提供する責任」

 

それこそが、唯一バイトに与えられた責任なのだ

 

つまり『売上』に関係なく、売上を保証するために

 

費用である「労務」を提供する責任

 

だからこそ無断欠勤や遅刻は、彼らにとって重大な「責任違反」となる

 

そして、それは本来「無責任」であるはずの彼らにとって

 

重大な誓約となり、制約となる

 

「本来はプライベートに使えるはずの『時間』をバイト先に制限される」

 

それは「社員」にとっては、馬鹿らしく当たり前のことに思えるだろうが

 

彼らにとっては、本来自分の「働きたい時間」のみ働くのが「バイト」であり

 

「自由に使えるべき時間」を会社に「拘束されるのが」バイトである

 

そういった両者の考えの違いについては、一見して「埋まらない溝」であるように思う

 

 

だが、それでもバイトを雇用し続けなければならない現状

 

少しでもバイトに自分(社員として)の考え、あるいは会社にとって有益な考え

 

に近づき、寄り添ってもらうにはどうすればいいのか

 

そこに必要なのは『正論』などではない

 

あくまで『相手』に寄り添った、一見して「正論」から外れたものなのかもしれない

 

例えばこんな風に言ってみる

 

「いつも無理して、シフトに出てくれてありがとう」

 

そもそも予定がないからシフトに入ってくれているのであって

 

「無理をしている」わけではなく、自分としても「無理にシフトに入れている」

 

つもりはなかったとする

 

それでも、もしかしたらそのバイトは自分の「やりたい事」

 

「予定」とまでは言わずとも「個人的にやりたかった事」

 

「お気に入りのテレビ番組を観たかった」とか「趣味に時間を使いたかった」など

 

それらを「まあ、いつでもできるか」と我慢して

 

穴の空いたはずのシフトに入ってくれたかもしれない

 

「社員」にとっては当たり前のことかもしれない

 

けれど、当人にとってそれは「我慢して会社に尽くした」ことになるのかもしれない

 

それについて、いつもそうして「我慢させて」しまっていることに対して

 

「ありがとう」と言ってみる

 

それだけで、そのバイトは「我慢しても良かった」と思えるのではないだろうか

 

 

あるいはバイトに、その人物がいてくれることで助かったことを言ってみる

 

「○○がいて助かったよ。今日の忙しさだと○○がいないと、回せなかった」とか

 

「○○をやってくれてありがとう。本当は自分がやらなきゃいけないことなのに」とか

 

 

無意味に、無作為に「褒める」のが良いと言っているわけではない

 

あくまで自分が「助かったこと」を純粋に口に出してみる

 

そうすることで、「自分が必要とされている」ということに気づき

 

「自分がいないとダメなんだ」と思われる

 

 

『使命感』とは自ら生まれるものではなく、他人によって初めて気付かされるもの

なのだ

 

そうして「使命感」を認識したバイトはやがて

 

「自らの使命を果たすには?」と自主的に考えるようになり

 

自ら行動し、ひいてはそれが「店全体として」あるいは「企業全体として」

 

間違いなく、良い効果をもたらすことになる

 

そこには当人の目先の『利害』は含まれない

 

「時給がどうとか」「他のバイト先と比べてどうとか」

 

そんなことは一切関係なく、あくまで「店舗」あるいは「企業」を

 

『友人のようなもの』として扱い、好意からくる『一方的な利益』をもたらしてくれる

 

 

そんな相互の『利害の不一致』を考慮しない

 

「有償の行為」ながらも「無償の好意」をもたらさせる感情を

 

作為的ではなく、ごく自然に発露させる者こそ

 

「巧い上司」あるいは「巧みな経営者」であり

 

単なる「正論」ばかりを振りかざす者より

 

いくらでも「反論」を許しつつも

 

最終的には「納得させる」だけの論理を持った

 

「相手に寄り添った真理」であるのかもしれない