ひよこねこ

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『詐欺』に騙されないための思考法、そのヒント

 

我々は誰だって『騙され』たくはない

 

『騙される』ことはつまり、『期待を裏切られる』ことであり

 

それは結果として「物理的」、「精神的」な『不利益』を被ることになるからだ

 

 

だからこそ我々は『警戒』し、あらゆる「事象」や「情報」について

 

その『真偽』を見極めようと試みる

 

けれど、それは容易なことではない

 

発信者が「騙そうとする意図」=『悪意』がある場合はもちろんのこと

 

たとえそれが『善意』とまでは呼べないにせよ

 

発信者当人が「信じ込んでいる」場合

 

あるいは当人にとっては『真実』であろうとも

 

果たしてそれが、自分にとっても『真実』になるとは言い切れず

 

『真偽』はしばしば、「相対的」「客観的」な指標に左右されるものであるからだ

 

 

そうした中、我々唯一『自己防衛手段』として用いる方法は

 

全てを疑ってかかること

 

であり、「君子危うきに近寄らず」という先人の有難い教えの通り

 

つまり、「疑わしいものには、そもそも近づかない」という

 

『リスク』を最小限に抑えるために、時に『リターン』をあえて無視する

 

というやり方だ

 

「上手い話には必ず『裏』がある」

「『タダ』より高いものはない」

 

といった言葉を、行動規範の根本的思考にすえる者も多く

 

その考えは、商業的にもそれほど間違ったものではないだろう

 

 

けれど、そうしたある種『完全無欠』に思える『自己防衛』の方法にも

 

やはり「リスク」というものは内包される

 

それは『機会損失』という言葉に示されているように

 

「利益」を選ばないことが、そのまま「損失」に繋がるという『リスク』だ

 

 

本来得られたであろう「利益」(それは経済的もののみを表すものではない)を

 

得られなかったことは、単に利益の「非獲得」あるいは「未獲得」に過ぎないが

 

我々はそれをしばしば「損失」と考えてしまいがちである

 

「あの時ああしていれば、こうしていれば」という仮定は

 

『後悔』へと形を変え、精神的な「損失」を生むことに繋がる

 

 

そうした、「損失の経験」こそが

 

次なる状況、機会における『疑念』を生み、『判断』を鈍らせ

 

やがて完全無欠の「自己防衛手段」は、おのずから『瓦解』してゆく

 

そして『詐欺』の手法というのは度々、そうした『精神的綻び』を巧みに突いてくる

 

 

では、我々は一体どのようにすれば

 

『真偽不明』の情報から真実のみを抽出し

 

「騙される」ことから身を守ることができるのだろう?

 

はっきり言って、一概にその方法を断定することはとても難しい

 

予め断っておくが、この記事を一読しただけで

 

全ての詐欺から身を守れるかというと、もちろんそんな上手い話はない

 

(それこそ立派な『詐欺』である)

 

けれど、何かしらの指標を考察し、それを元に『判断材料』を構築することはできる

 

そこで今回の記事は、「情報発信者」=「騙そうとする者」と仮定し

 

彼らがどのような手法を用いて他者を欺こうとするか

 

彼らの立場に立って考えてみることで

 

逆説的に「騙されないためには、どうすればいいのか?」について考えてみよう

 

 

まず、「真偽」に関わらず、他人を『勧誘』しようという意図のある広告において

 

よく使われる手法は大別して、『三つ』ある

 

それは『限定』と『優位性』と『利害の一致』だ

 

前者二つは、我々の『利得感情』を強烈に刺激し

 

後者は、我々の『信頼』を的確に担保する

 

 

『限定』とは主に、「期間」や「数量」によるもので

 

「期間限定!!」や「数量限定!!」「〇名様、限定!!」

 

という広告文句に、消費者である我々が弱いことは言うまでもない

 

それらの宣伝文句が謳われるということは

 

何かしら広告主にとって、『限定』にしなければならない要因があるのだと推察し

 

あるいはそれは「利幅の縮小」であったり、「供給可能の限界」であったりと

 

様々な理由が考えられるが

 

だからこそ相手の「利幅の縮小」は、自分にとっての「利幅の拡大」であり

 

「供給可能の限界」は、「希少性の付与」と思い込んでしまう

 

だが、ここで問題なのは

 

上記で挙げた二つの要因について

 

我々がその「度合い」を合理的に算定することが不可能なことだ

 

そもそもその商品にどれだけの「利幅」があり

 

どれだけの「供給」が本来可能であったかを知るのは実質不可能であるし

 

そこに「比較可能性」を見出すこともまた難しい

 

『限定』とはつまり相手にとっての基準にすぎず、自分にとっての指標ではないのだ

 

 

次に『優位性』について考えてみる

 

けれど、その言葉について「直接的」に表現されている広告を見る機会は少ないだろう

 

「当社の製品は、他社の製品より優れています!!」

 

なんて広告を打ち出す企業はいない

 

(その理由については様々だが、おそらくお察し頂けることだろう…)

 

それでも『優位性』は表現を変え、必ず広告に含まれている

 

というより、それこそが広告における最大の要素であり

 

「『優位性』を示さない広告は、もはや広告ではない」とさえ言えるかもしれない

 

あるいは、一つ目にあげた『限定』もまた

 

ある種では『優位性』の表現が変化したものかもしれない

 

そして『優位性』は主に、「価格」「機能性」によって訴求される

 

だが、それ自体は何ら問題ない

 

なぜなら、そこにはきちんと『比較可能性』が存在し

 

その情報自体が『嘘』である場合を除き

 

我々は自らの意思で「比較」し、「選ぶ」ことができるからだ

 

問題はその優位性が、『情報優位性』にのみ言及されている場合だ

 

つまり「『知っている』ことが優位性を持ち、『知っている』から得をする」

 

という論理だ

 

その論理構築自体は、決して間違いではない

 

「『智』とは最大の財産であり、誰にも奪われないものだ」

 

という『アセット』の名言にもあるように、「知っている」ということは

 

時に、何においても最大の武器となる

 

だがそれにしたって、一体どれだけの者が「知っているのか?」という比較無しでは

 

優位性の判断はできない

 

そして、もう一つ

 

『知』と『智』は別物であり、「知る」ということが

 

そのまま「智の獲得」になるとは限らないということだ

 

確かに「新たな情報を仕入れる」=「知る」ことで選択肢は増えるかもしれない

 

けれど、それによって「正しい判断ができるか」というのは、また違う問題なのだ

 

「知らないほうがいいこともある」とまでは言わないが

 

人間が感情性の動物であり、どうしたって主観を排除できない以上

 

かえって、知らないほうがより客観的に物事を判断できる場合もあるだろう

 

そうした理由から、『情報の優位性』のみを売りにした広告というものには

 

まずはそれ以外の、『優位性』について考えてみるべきかもしれない

 

 

最後に『利害の一致』についてだが

 

これについては、前述で「前者」と「後者」として分けたように

 

先の二つとは、やや毛色の異なるものだ

 

つまり、「限定」と「優位性」が我々の『利得感情』を刺激する

 

いわば、『攻め』としての要素であるのに対して

 

『利害の一致』とは、どちらかというと『守り』についての要素であるということだ

 

 

そもそも我々がなぜ『騙される』ことを恐れ嫌うのかというと

 

それは冒頭で挙げた通り、『損失』を避けたがる傾向にあるからだ

 

そして、「自分がそうであるからこそ、他人もそうであろう」という同化は

 

ごく当たり前の論理であり、結論であるように思われる

 

「『損』をせず、『利』を得たい」というのはお互い様であり

 

だからこそ、「無償の奉仕」や「一方的な利得」というものを我々は警戒する

 

そこからくる感情が「『タダ』より高いものはない」という言葉であり

 

「本当に『タダ』であるはずはないのだから、そこには何らかの『嘘』がある」

 

と考えるのだ

 

その考えは一見まともであり、警戒心として至極真っ当であるように思う

 

だが、そこに「落とし穴」がある

 

 

遥か昔、我々が「騙される」ということにある種、寛容であり

 

それに対する警戒心や意識が低かった頃には

 

しばしば『タダ』を謳い文句にした詐欺が横行した

 

だが、人類はやがて学習した

 

それは、様々な動物が自己防衛のために

 

「毒」や「天敵」を見分ける方法を会得したように

 

「『タダ』という『疑似餌』こそ、最大限に警戒すべき」という考えに至ったのだ

 

だが、自種族が進化すると共に天敵もまた進化することが、生物界の理であるように

 

「騙される側」が警戒し、その対処法を学べば学ぶほど

 

「騙す側」もまた学び、より高度な手法を駆使するのである

 

「『タダ』が怖い」というならば

「『タダ』である」という事実を解消してやればいい

 

それこそが、現代における「詐欺の手法」において最も多用されるものである

 

ここで重要なのは、『利害の一致』とは

 

あくまで『金銭』や『経済的価値』のみを指すものではないということだ

 

そして同時に、『利益の譲受』というのは

 

当事者間のみならず、「第三者」によっても行われるということだ

 

 

例えば、このブログは読者にとって「有益な情報」を発信するためにある

 

(果たして本当に有益であるかについては、読者の判断に委ねる)

 

読者は閲覧に際して、何かしらの費用を要求されることはないし

 

筆者が、この記事を書くことで得られる経済的利益は今のところ『0』だ

 

だが、それでもなぜ筆者がこのブログを更新し続けられているかといえば

 

正直そこには、「自分の考えを他人に知ってもらいたい」という承認欲求や

 

ある事象や物事における「自分の観点の意外性」についての優越感など

 

そうした『自己満足』があるからだ

 

さらに、このブログのトップにも挙げているように

hiyokoneko13.hatenablog.com

 

将来の『収益化』を見込んで、それを目指しているという理由もある

 

そして、その『収益』とは読者から直接的に得られるものではなく

 

アフィリエイトなどによる「第三者からの利益」という間接的なものである

 

もしも、このブログが読者にとって少しでも「有益なもの」であると思って頂けるなら

 

筆者は「タダ」でこの記事を提供していることになる

 

そして、警戒心を抱く読者に、筆者はこう弁明する

 

「あくまで『自己満足』のためなのだ」

 

あるいは「第三者からの利益のためなのだ」と

 

すると、一部の読者は安心し、警戒心を解くことだろう

 

「なんだ、ちゃんと相手にも利益はあり、

 

たまたま『利害が一致』しただけなのだ」

 

と、だからこそ

 

「このブログにおいて読者を騙し、意図的に不利益を与えるような事はないだろう」と

 

だが、それこそが『罠』なのだ

 

なぜならば、その思考には

 

「筆者が閲覧数を稼ぐために、ただ耳に馴染みが良いだけの『嘘』を流している」

 

という、真の意味での『利害の不一致』については考慮されていないからだ

 

 

「我々は、『真偽不明』な多くの情報の中で日々生きている」というのは

 

これまでの記事においても述べてきたことである

 

だからこそ、我々はより警戒心を持ち、時に「疑いの目」をもって

 

情報を取捨選択していかなくてはならない

 

だが、そのためには単に「警戒心を持つ」だけでは不十分であり

 

警戒心を抱くにたる『根拠』を明確にしていくことが不可欠である

 

最初にも断っておいたが、この記事を読んだからといって

 

全ての『根拠』を得られるわけではなく

 

「騙される」ことから常に身を守れるわけでは決してない

 

それどころか、果たしてこの記事が真に「正しいもの」であるかさえ分からない

 

 

ちなみに、この記事において

 

明らかな嘘を『一つ』(あるいは一つではないかもしれない)混ぜておいた

 

それもまた、「どんな情報をも、手放しで信用するには『リスク』が伴う」

 

ということの証明であり、「全てを疑うこと」にはそれなりの危険が伴うが

 

「全てを信じること」は、それ以上に危険であるという教訓だ