ひよこねこ

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「ルックバック騒動」について思うこと

 遅ればせながら、つい最近『チェンソーマン』を読んだ。「面白い!」と散々話題になっているだけあって、さすがの読み応えだった。

 

 内容については。最新刊まで「一気読み」したせいもあってか、次々と犠牲になっていく登場人物たちに付いていけない部分が多少なりともあった。

 

 だがそれも、あくまで人の世に潜む「不条理」を描いているのだとするならば。

 

「あぁ、現実ってこんなもんだよな~」

 

 と、残酷過ぎる描写にも納得できる。(無論、当該作品はそのように感想を一言で片づけられるほど「薄い」物語では決してない)

 

 さて『チェンソーマン』をキリの良いところまで読み終えた筆者は。その頃ちょうどネットで「大名作」と話題になっていた、同作者の作品を次に読むことにした。

 

 それが今回記事にさせて頂くことにした、言わずと知れた『ルックバック』である。

 

 読後の感想としては。

 

「『チェンソーマン』より、こっちの方が好きかも!」

 

 無論それは、筆者の好みに尽きるところであり。どちらの作品がより優れているかをここで論じるものではない。

 

 あくまで事前情報として。「創作に携わった経験がある者ならば、皆等しく泣く」と聞いてはいたが、まさしくその通りで。

 

 筆者も趣味として小説を書いている身としては、涙こそ流しはしなかったものの、「共感」出来るシーンは無数に散りばめられていた。

 

「良作」と出会えたことで、己の創作意欲を存分に刺激されつつ。「鉄は熱い内に打て」という先人の戒めに従うことなく、今の今まで執筆活動を延期し続けてきた筆者であったが。

 

 まさに本日、この場を借りてどうしても語りたいことが出来た。

 

 何気なくTwitterを見ていると、『ルックバック騒動』というトレンドが挙がってきたのだ。

 

(以下、当該作品の「ネタバレ」を含みます。未読の方は、偏見なく先に作品をお読み頂いたほうが幸いかと)

 

 

 呟かれている発言を元に、騒動の内容を要約すると。

 

 物語後半で登場する犯人の精神疾患の描写に「誤謬」と「偏見」があるらしい。

 

 筆者は精神科医などではなく、不勉強のため医学的な詳細は解りかねるが。

 

 作中で「統合失調症」の患者に典型的な「症状」が描かれており。それらを直ちに「猟奇殺人犯」の「動機」と結び付けてしまうことは、同じ精神疾患をもつ者に対する「差別」を助長しかねない、と。

 

 それについて、筆者の思うところを述べさせて頂くことにする。

 

(以下、便宜上「肯定」と「否定」という立場を取って論理を展開させていくが、そのような「二元論」に帰着すべきものではないことをここで断っておく)

 

 

 まずは、「否定的」な意見について。

 

 言うまでもなく自明なことではあるが。そもそも「精神病患者」のおよそ大半が(ほとんど全ての者が)己の疾患に苦しみながらも、「犯罪」などに手を染めることなく日常を送っている。

 

 だが同時に、一部の者が起こした「凶悪犯罪」を己の疾患の「せい」にすることで。いわゆる「精神鑑定」にかけられ「責任能力なし」と判定されることで、「罰」を免れているという事実も存在する。

 

 そうした中で。世間の人々が「無責任」な犯人を憎み、さらには罪を犯しても「社会的責任」を問われない可能性のある者を「遠ざけたい」と思うことは、何ら飛躍した論理などではない。

 

 仮にもあなたに「大切な人」がいるとして。家族や友人、我が子などが犯罪者に傷つけられ、時に命を奪われることを怖れるのは当然の人情ともいえる。

 

 ここで特筆すべきは。「被害者になってから」では遅く、あくまで未然に防ぐため「自己防衛」することが求められる、ということである。

 

 その対応策として「先手」を打つべく行われるのが。そもそも「異常者」(あえて過激な言い方をさせて頂く)を己の周囲から遠ざけ、理解不能な「病気」や「性癖」を理由にしてレッテルを張る、という作業である。

 

 そうした行為を筆者は「匣に入れる作業」と呼んでいる。

 

 すなわち。罪と人とを一緒くたにして「ブラックボックス」に詰め込み、数少ない伝聞情報による偏見に満ちた「表書き」をして、自分には無関係だと「鍵を掛ける」ことで。己の日常を守り、正常を保つのである。

 

 そこにおいて、物語に展開を与えるべく「異常者」を登場させたことは。まさしく「匣に入れる作業」と呼べるものであり、「犯罪者心理」に対する説明を放棄していると言わざるを得ない。

 

 さらに遺憾なことに。本作に描かれている「凶悪犯罪」は、夢を追い創作に打ち込む者の尊い命が奪われることになった、未だ記憶に新しい「凄惨な事件」と重なる部分が多々ある。

 

 そのようにして「実際の事件」と「架空の事件」とを結びつけた上で、あたかも「精神病」が原因であるかの如く描写することは。「統合失調症」及び、その他の「精神疾患」に対する理解を歪めてしまうことになりかねない。

 

 

 では、ここで次に「肯定的」な意見について。

 

 本作においては『チェンソーマン』と同じく、日常に潜む「不条理」が描かれている。

 

「罪のない友人」の将来が無慈悲にも奪い去られてしまう中、犯人の「真の動機」について語られることはない。あくまで「騒動」の発端となった「新聞の一文」と、ニュース番組による「報道」がなされているのみである。

 

 では本当に、件の犯人は「統合失調症」を患った者なのだろうか?

 

 筆者は「違う」と推測する。

 

 この物語は終始、「創作者」について描かれている。

 

「絵を描くのが上手い」と友人にもてはやされ、得意気になっている主人公。

不登校」ながらも、主人公の遥かに上を行く画力をもつクラスメイト。

 

 彼女たちが偶然にも「運命的」にも出会ったことで、物語は動き始める。

 

 

 だがもしも。二人が出会うことなく、卒業していたのだとしたら?

 

 担任が「学級新聞の四コマ漫画の枠を一つ譲ってくれないか?」などと言い出さず、あくまで主人公のみに任せていたとしたら?

 

 主人公は中学、高校と進学する過程で(もしくは小学生の段階で)絵を描くことを辞めてしまうかもしれない。(多くの「天才たち」が、かつてそうであったように)

 

 あるいは「同志」と出会うことがなくとも、主人公は一人「漫画家」を目指していたのかもしれない。

 

 その過程において、主人公は「現実」に打ちのめされることになる。(あのままの画力ならば、無理もないだろう)

 

 その一方。主人公の「四コマ漫画」に憧れた不登校児は、進路を決める段階で「画家」を目指したかもしれない。

 

 そこで彼女もまた「現実の壁」にぶち当たることになる。(「引きこもり」のままでは、美大に通うことも難しいだろう)

 

 そこで「諦める」ことが出来たのならば、ある意味で幸福なのかもしれない。

 

 だがいつまでも「夢」を捨てきれなければ、彼女たちのその後の人生に暗い「影」を落とすことになる。

 

——なぜ、自分の画力は上達しないのか?

 

 こんなにも「努力」しているのに。

 

——どうして、自分の絵は他人に認められないのか?

 

 人より己の「才能」の方が優れているはずなのに。

 

 徒に時ばかりが過ぎ、嫉妬に駆られつつも、ふと立ち寄った「美大」において。若さ故の才能に溢れた絵を見て、こう感じるのではないだろうか?

 

——自分を罵倒する声が聞こえた。

 

 と。

 

 ここまでは無論、筆者自身の勝手な「妄想」であり。作者がどこまで意図したものなのかは分からない。

 

 だが筆者としては今作品が、「三人の」創作者たちの物語であるように思えてならない。

 

「同志」と「才能」に恵まれた「二人」と、それらを得ることの叶わなかった孤独な「一人」。さらに言うならば、多くの創作者たちが行き当たることになる「不条理」。

 

 それでも尚「絵を描くこと」は苦しくも楽しく、美しくも残酷だ、と——。

 

 

 最後に一つ、蛇足ではあるが。「蛇足」と言うならば、この物語における「後半部分」(主人公が想像した「別の未来」)がまさしくそうだ。

 

 いや、蛇足というのはやはり言い過ぎだろう。(筆者としては凄惨な結末のまま幕を閉じると思いきや、「続き」が描かれたことにやや意外性を感じたというだけだ)

 

チェンソーマン』においては、決して描かれることなかった「幸福な結末」。

 

 それでも、あえて作者が「その先」を描いたのは。作者なりの「登場人物たち」(主人公と友人だけでなく「犯人」においても)に対する「救済」なのかもしれない。

 

 そして。「不条理」に「救い」をもたらすこともまた、創作にしか出来ない「所業」なのだろう。