ひよこねこ

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『愛国心』の正体とは何か?

 

この記事を始める上で、最初に二つの質問をしてみたい

 

 

まず、一つ目の質問 

 

「あなたは自分が『選ばれし人間』であると思っているだろうか?」 

 

まるで『中二病』かどうかを診断するテストみたいだ

 

そもそも『選ばれし人間』という定義自体が曖昧で

 

それは何かが「優れている」とかいった具体的なものではなく

 

たとえ優れているとしたって、どういった「範囲」で「どれだけ」といった

 

比較的数値さえ不明で、あまりに漠然とした「問いかけ」である

 

 

ちなみに筆者はこの質問に「イエス」と答えてしまう

 

それはやはり僕が数十年前に「中二病」を発症し

 

未だにその完治に至っていないゆえであり

 

「ではその根拠は?」と問われれば、途端に返答に窮してしまう

 

 

そして、二つ目の質問

 

「あなたは『愛国心』を持っているだろうか?」

 

そう訊かれると、確かに自分の生まれた国はそれなりに気に入っているし

 

今のところ別の国に移住する予定はなく、きっと死ぬまでそうだろうし

 

だからといって「『愛国心』があるか?」と問われると

 

自国の「政治」には不満があり、自国の全てを手放しに「愛せるか?」というと

 

そういうわけでもない

 

それに『愛国心』という言葉には、何だか不穏な空気が含まれているようで

 

あるいは「過激な集団」への勧誘を受けているみたいで

 

見ず知らずの相手に「自分は愛国心があります」と主張するのには

 

いささかの抵抗を感じてしまう、という方もいることだろう

 

 

一見無関係に思える、上記の二つの問いだが

 

実はそれらは、ある一人の「偉人」の名言(本当に言ったのかは定かではないけれど)

 

においては、密接に関係している

 

 

「『愛国心』とは、自分がたまたまそこに生まれたという理由で

その国が他より優れているとする信念のことだ」

byジョージ・バーナード・ショー

 

 

その名言は『愛国心』という正体についての適切な認識ではないかもしれないが

 

愛国心』という感情について、実に的確に皮肉っている

 

つまり

 

「あなたが『たまたま』そこに生まれたから『というだけの理由』で

その国が他より『優れている』」

 

というのは、まさに自己を中心とした世界観である『中二病』的な考えである

 

(その偉人の時代には、おそらくその言葉はなかっただろう)

 

 

だが、その名言はある観点においては正しいと言えるかもしれないが

 

別の観点から見れば、必ずしもそうではないと思う

 

それは、人間誰しもが『愛着』という感情を持ち合わせているからだ

 

 

人は自分の「長年使っている物」や「長年付き合っている者」や

 

「長年住んでいる場所」に愛着が湧くものだ

 

そこには『他』との比較はなく、むしろ比較がないからこそ

 

その感情が持続し、さらなる愛着をもたらすのである

 

 

ではそういった「愛着」と呼ばれる執着に起因する

 

愛国心』(あるいはそれに近い感情)と

 

かの偉人の言う『愛国心』との、一体何が違うのだろう?

 

その答えは、すでに上述の文章の中に示されている

 

 

それは

 

別の何かと『比較』するかどうか、だ

 

 

もしあなたが自国と他国を比較し、その結果として愛国心を叫んでいるのなら

 

その信念は、やはり論理的ではない「感情論」ということになってしまう

 

自国と比較して、経済状況や政治情勢が劣っていると感じる国があるかもしれないが

 

ある一点においては自国より「優れている」国を見つけることはたやすく

 

全てにおいて優れている国(それは人や物についても同義だが)は存在しない

 

それでもあなたが

「自国が他国より優れているから、愛国心を持つ」

というならば、それはもはや主観による感情であり、「中二病」と何ら変わらない

 

(別に『患者』を否定しているわけではない、前述の通り筆者も闘病中の身である)

 

 

だからこそ我々は、自国を評し愛する上で

 

他者である『他国』との比較を持ち出すべきではなく

 

愛着に起因した、あくまで『個人的な理由』として

 

その感情を語らなければならないのだ

 

つまりは、「ノロケ」である

 

 

そして「ノロケ話」も度が過ぎれば、やはり他人の気分を害してしまう

  

例えば、自分の恋人について語る上で

 

「『ノロケ話』になっていないかどうか」については、細心の注意を払う部分である

 

「きっと聞かされた方は、あまり良い感情を持たないだろう」と客観的に判断し

 

あくまで「『冷静』であろう」と務める

 

だが、国家を「恋人」と比喩するならば

 

それについて語るとき、客観性を失いつい冷静さを失ってしまうのは

 

国家が他の者にとっての「恋人」であり、同じ感情を共有できる「仲間」がいるからだ

 

だからこそ多勢に組み込まれ、「自らの意見」を「多くの意見」を代表するものとして

 

声高々に叫んでしまうのだ

 

 

そして、そうした感情に起因する行動原理というのは

 

何も『愛国心』についてのみ、その効果を発揮するものではない

 

例えば自分の『趣味』について語るとき

 

そこに同じ趣味を持つ、絶大なる「支持者」を得たつもりになって

 

つい「主観」と「客観」が置換されてはいないだろうか?

 

自分の「個人的な考え」を「大いなるもの」として語っていないだろうか?

 

その論理のすり替えは、つまりは強力な後ろ盾を得ただけの

 

ノロケ」に過ぎないのかもしれない

 

 

僕は今のところ日本に在住しているし、将来的に海外に移住するつもりもない

 

その理由としては、外国語を会得する根気がなく

 

外国の「習慣」に親しむ自信がないからでもある

 

けれど「世界遺産」など、島国にはない「壮大な絶景」には興味があるし

 

「いつか行ってみたい」という感情はそれなりにある

 

それでもやはり、絶景のある場所というのは人里離れた場所であることも多いし

 

アクセスの困難さを乗り越えてまで、そこに至りたいとまでは思わない

 

だからこそ、『日本』という住み慣れた場所をそれなりに気に入っているし

 

『日本』という国家に、それなりの愛着を持っている

 

それに、この国における「伝統」や「文化」についても誇りを感じている

 

けれどそれは「他国と比べてどうだとか」ではなく

 

あくまで『個人的な意見』として語られるべきであり

 

そこに他者をねじ伏せる『理論武装』は不要なものだ

 

 

そして、わが国が築きあげてきたそれらの「文化」や「伝統」も

 

僕自身の功績などでは決してなく

 

「自国」と「自分」という、「集合」と「個」を分けて考え

 

自身もそれを享受する「他者」であることを

 

強く心に刻まなければならないのではないだろうか