ひよこねこ

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『言語の違い』の広義での適用こそが、人間同士の『潤滑性』を生む

 

今回も僕自身のある「体験」から、記事を始めさせて頂こうと思う

 

 

これは、ある某有名レンタルDVD屋(誰もが一度は利用したことがあるはず)での

 

「店員」と「客(年配の方)」との『やり取り』である

 

 

客「ビデオを借りたいんだけど…」

 

客である「おじいさん」は数本のDVDを抱えて、レジを訪れた

 

売り場から、パッケージ(ダミー)ごと持ってきていて

 

DVDの入った透明のケース(マスター)だけを持ってくればいいことを

 

知らない様子である

 

(DVDを「ビデオ」と呼称していることについて、ここでは特に言及しない)

 

店員「いらっしゃいませ」

 

年配の客においてはよくあることなのだろう

 

店員は当然のようにマスターだけを抜き取り、ダミーをレジの後方に置いた

 

店員「〇カードはお持ちでしょうか?」

 

店員はやはり当然の如く、『マニュアル通り』に訊ねる

 

客「えっ?持ってないけど…」

 

おじいさんとしては、『サービスの一環』とくらいにしか認識していない

 

カードの有無について、当たり前のようにそう答える

 

店員「では、お作りになられますか?」

 

それもやはり『マニュアル通り』の対応なのだろう

 

サービスの提供に『必要不可欠』なカードを所持していない『新規の顧客』に対して

 

カードの作成の新規の入会を提案する

 

客「いや、大丈夫です」

 

そう答える客にやや困惑した様子の店員は

 

店員「カードがないと、レンタルサービスはご利用頂けませんが…」

 

すると今度はおじいさんの方が困惑した様子で

 

客「時間掛かるの?」

 

店員「いえ、二、三分程度で済みます。身分証はお持ちですか?」

 

そして、おじいさんは渋々といった様子で身分証を取り出し、手続きを始めた

 

 

僕はそのおじいさんの後ろに並んでいたが

 

隣のレジが空いたのでそちらに通され、無事に本を買うことができた

 

 

さて、この僕の「体験」と呼ぶには大袈裟な、「日常的によくある風景」から

 

何を学ぶことができるだろう?

 

 

双方の立場に立って正当性を主張することは、それほど難しくはない

 

店員の立場にとってみれば、「マニュアル通り」の対応をしたにすぎず

 

客であるおじいさんの立場にとってみれば、訊かれた事に対して素直に答えただけだ

 

そのどちらが間違っているというわけではなく、「ズレている」というわけでもない

 

双方の一つ一つの発言を切り出してみると、確かに「ヘンなところ」には思い当たる

 

その一例をピックアップしてみると

 

そもそも、店員は必要不可欠であるカードの作成による「入会」について

 

あたかも客に「選択の余地」があるように、訊ねるべきではなかったかもしれない

 

けれど、店員からすれば質問口調はあくまで「提案」としてであり

 

「強制」を和らげる手段として用いられたものなのかもしれない

 

その店員からすれば、レンタルサービスの提供にリスクは付きもので

 

身元不明の者に貸し出すわけにはいかず

 

だからこそ身元確認は必要不可欠であり、そのための「入会」という手続きは

 

ごく当然のことであり、たとえ自分が店員という立場でないにせよ

 

『周知の認識』であると思い込んでいる

 

そして、それは確かに僕自身を始め、多くの利用者に理解されていることでもある

 

 

では、この一連の「やり取り」において

 

どうしてこのような、ある種「無駄」とも思える会話がなされたのだろう?

 

店員を「マニュアル人間」と批判するべきなのか

 

あるいは、年配の客を「老害」と認定するべきなのか

 

違う

 

 

これは単に、両者の『認識の違い』によるものであり

 

その認識の違いを僕は便宜上

 

『言語の違い』

 

と呼んでいる

 

それについて詳しく解説する前に、もう一つ違った例を挙げてみることにする

 

これはドラッグストアでパートをしている僕の母親の体験であり

 

その愚痴を聞かされた時のものだ

 

 

僕の実家はわりと「田舎」のほうにあり

 

(田舎とはいっても、その言葉を聞いて多くの方が想像するような

 

田園風景の広がる「田舎」ではなく、ただ単に「都会」との比較において

 

あまり栄えていない「人口過疎地」としての田舎である)

 

そういった地域において「ドラッグストア」というのは

 

「スーパーマーケット」あるいは「コンビニエンスストア」を内包し

 

かつ「医薬品」も取り扱っているということで

 

主婦から高齢者に至るまで、その需要はかなり高い

 

そして「医薬品」というのは、その取扱いにおいて

 

「コンビニ」などで簡単に買えるものもあれば

 

病院などで処方箋を出してもらわなければ、手に入れることのできないものまで

 

実に様々である

 

「ドラッグストア」で扱っているものでも

 

売り場に置いてあって、そのままレジで売れるものもあれば

 

販売の際に担当者の「説明」が必要なものもある

 

(レジの後方に置いてあるものなんかがそうだ)

 

そして、その「説明」は法律によって定められたものであり

 

販売者や消費者の独断で省くことはできないものだ

 

だが、自分にとってあまり「有益」とは思えない説明というのは

 

余計に長く、「不要」と感じるものだ

 

それについて、母親は僕に愚痴をこぼしてきた

 

その母親の愚痴から、僕が想像した「やり取り」は以下のものである

 

 

店員「こちらの医薬品の販売については、担当者の説明が必要です」

 

(正しい文言であるかは分からない、あくまでニュアンスとして)

 

店員「説明をお聞きになられたことはありますか?」

 

客「ないけど、大丈夫」

 

ここで店員である母親はやや困惑する

 

店員「薬事法に則り、説明がないとお売りできないのですが…」

 

(そんな固い言い方ではないかもしれない)

 

客「何回も使ったことあるから分かるよ」

 

客はやや面倒くさそうに言う

 

店員「では、その時に説明を聞かれませんでしたか?」

 

客「覚えてない」

 

店員「では、一応説明させて頂きますね」

 

そこで母親は半ば強制的に担当者を呼び、説明をしてもらった

 

そして、客は渋々それを聞き流した

 

 

この「やり取り」についても

 

どのような『認識の違い』があるのかを見ていこう

 

 

まず店員にしてみれば、当然「薬事法」における詳細な条文を知っているわけではなく

 

あくまで、「一部の医薬品には説明が必要」という認識だ

 

「それをしないと、法律で罰せられる」と上司に言われたかもしれない

 

「強い薬だから」と、その理由については納得したはずだ

 

次に客にしてみれば、その薬は毎回使っているものであって

 

その使用法については箱に書いてあるだろうし

 

たとえそれを読まなかったとしても、用法用量を著しく間違えなければ問題ない、と

 

「経験による判断」によって、認識している

 

当然「薬事法」なんて難しいことは分からないし

 

たとえ何かしらの副作用が現れたとしても

 

それは「自己責任」だから大丈夫というわけだ

 

だが、この「自己責任」というものが実にくせ者で

 

法律によっては、全てを自己責任という言葉で完結することはできない

 

 

たとえば、「酒類」の取り扱いにおいて

 

未成年者や運転者への提供が

 

法律によって厳しく制限されていることは言うまでもない

 

そのための手続きとして「確認」が必要であり

 

万が一それを省いたとして、受領者の「自己責任」として

 

債務(義務)の不履行の正当性を主張することはできない

 

 

だからこそ、店員としては省くことのできない「義務」として

 

「説明」を提案したのであって

 

それは法律による「強制」でもある

 

だが、客(この例に挙げた一部の者)にとって

 

それは「権利の行使」としての「説明責任」であり

 

その必要性については、選択可能なものである

 

そうした両者の「認識の違い」が

 

双方にとっての不利益を生むことになる

 

それは店員にとっての「困った客」による

 

客にとっての「面倒くさい店員」による、『時間の浪費』だ

 

 

ではそうした「やり取りの無駄」あるいは「お互いの消耗」を避けるためには

 

一体どうするべきであり、どういった『考え』が必要なのだろう?

 

それは

 

『認識の違い』について、常に自らが認識しておくことだ

 

それはごく「当たり前」のことのようであり

 

自分と他者の「違い」については、誰もが「分かっているつもり」である

 

けれど我々はしばしば、「少しの違い」において

 

それらは「同じもの」と扱ってしまう傾向にある

 

『差別』の根本とは、何か? - ひよこねこ

 

の記事でも述べたことではあるが

 

膨大な情報を整理するための手段として

 

「カテゴリー」の分別は必要不可欠であり

 

その機能が時として「同化」を生み出すことは厳然たる事実である

 

だからこそ我々は人種や民族、あるいは『言語』による分別のみならず

 

世代間や立場、個々の『認識』による『違い』について

 

より深く、寛容に理解しなくてはならない

 

 

例えば、道を尋ねてきた「外国人」に対して

 

日本語で、辺りの地理を理解していることを前提にして説明したりはしない

 

可能であればその言語で、あるいは共通語としての英語で話し

 

まずは目視できる目印を起点として、説明を試みるだろう

 

その説明について、たとえ相手が理解できなかったとして

 

それはあくまで『言語の違い』を原因として

 

相手に対して批判的な考えは持たないはずである

 

 

では、「同じ言語を話す者同士」ではどうだろう?

 

「会員証」「薬事法

 

それらは『共通の言語』としての役割を十分に果たしているだろうか?

 

それだけではない

 

「Aセット」「日替わりランチ」「ドリンクバー」

 

多くの消費者にとっては『当たり前』の用語であっても

 

一部の者にとってそれは、意味不明の用語ではないだろうか?

 

そして、そうした「認識の違う」両者の間で交わされる「やり取り」は

 

もはや「違う言語」による会話であり

 

だからこそ僕はそうした「認識の違い」を

 

『言語の違い』と呼ぶことにしている

 

そこには、どちらか一方の「落ち度」や「不手際」があるわけではなく

 

ただ単に、それまでの経験やそれに伴う認識についての『相違』があるだけである

 

 

我々は『多様性社会』の中に生きている

 

そして『多様性』とは前述の通り、大まかな「カテゴリー分け」だけのものではない

 

人それぞれが違うように、多様性とは人の数だけ存在する

 

それを十分に理解し、相手の立場に立った『言語』を用いることで

 

人間関係はより円滑に、摩擦を減じた「潤滑性」が増すことになるのではないだろうか