ひよこねこ

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「ルックバック騒動」について思うこと

 遅ればせながら、つい最近『チェンソーマン』を読んだ。「面白い!」と散々話題になっているだけあって、さすがの読み応えだった。

 

 内容については。最新刊まで「一気読み」したせいもあってか、次々と犠牲になっていく登場人物たちに付いていけない部分が多少なりともあった。

 

 だがそれも、あくまで人の世に潜む「不条理」を描いているのだとするならば。

 

「あぁ、現実ってこんなもんだよな~」

 

 と、残酷過ぎる描写にも納得できる。(無論、当該作品はそのように感想を一言で片づけられるほど「薄い」物語では決してない)

 

 さて『チェンソーマン』をキリの良いところまで読み終えた筆者は。その頃ちょうどネットで「大名作」と話題になっていた、同作者の作品を次に読むことにした。

 

 それが今回記事にさせて頂くことにした、言わずと知れた『ルックバック』である。

 

 読後の感想としては。

 

「『チェンソーマン』より、こっちの方が好きかも!」

 

 無論それは、筆者の好みに尽きるところであり。どちらの作品がより優れているかをここで論じるものではない。

 

 あくまで事前情報として。「創作に携わった経験がある者ならば、皆等しく泣く」と聞いてはいたが、まさしくその通りで。

 

 筆者も趣味として小説を書いている身としては、涙こそ流しはしなかったものの、「共感」出来るシーンは無数に散りばめられていた。

 

「良作」と出会えたことで、己の創作意欲を存分に刺激されつつ。「鉄は熱い内に打て」という先人の戒めに従うことなく、今の今まで執筆活動を延期し続けてきた筆者であったが。

 

 まさに本日、この場を借りてどうしても語りたいことが出来た。

 

 何気なくTwitterを見ていると、『ルックバック騒動』というトレンドが挙がってきたのだ。

 

(以下、当該作品の「ネタバレ」を含みます。未読の方は、偏見なく先に作品をお読み頂いたほうが幸いかと)

 

 

 呟かれている発言を元に、騒動の内容を要約すると。

 

 物語後半で登場する犯人の精神疾患の描写に「誤謬」と「偏見」があるらしい。

 

 筆者は精神科医などではなく、不勉強のため医学的な詳細は解りかねるが。

 

 作中で「統合失調症」の患者に典型的な「症状」が描かれており。それらを直ちに「猟奇殺人犯」の「動機」と結び付けてしまうことは、同じ精神疾患をもつ者に対する「差別」を助長しかねない、と。

 

 それについて、筆者の思うところを述べさせて頂くことにする。

 

(以下、便宜上「肯定」と「否定」という立場を取って論理を展開させていくが、そのような「二元論」に帰着すべきものではないことをここで断っておく)

 

 

 まずは、「否定的」な意見について。

 

 言うまでもなく自明なことではあるが。そもそも「精神病患者」のおよそ大半が(ほとんど全ての者が)己の疾患に苦しみながらも、「犯罪」などに手を染めることなく日常を送っている。

 

 だが同時に、一部の者が起こした「凶悪犯罪」を己の疾患の「せい」にすることで。いわゆる「精神鑑定」にかけられ「責任能力なし」と判定されることで、「罰」を免れているという事実も存在する。

 

 そうした中で。世間の人々が「無責任」な犯人を憎み、さらには罪を犯しても「社会的責任」を問われない可能性のある者を「遠ざけたい」と思うことは、何ら飛躍した論理などではない。

 

 仮にもあなたに「大切な人」がいるとして。家族や友人、我が子などが犯罪者に傷つけられ、時に命を奪われることを怖れるのは当然の人情ともいえる。

 

 ここで特筆すべきは。「被害者になってから」では遅く、あくまで未然に防ぐため「自己防衛」することが求められる、ということである。

 

 その対応策として「先手」を打つべく行われるのが。そもそも「異常者」(あえて過激な言い方をさせて頂く)を己の周囲から遠ざけ、理解不能な「病気」や「性癖」を理由にしてレッテルを張る、という作業である。

 

 そうした行為を筆者は「匣に入れる作業」と呼んでいる。

 

 すなわち。罪と人とを一緒くたにして「ブラックボックス」に詰め込み、数少ない伝聞情報による偏見に満ちた「表書き」をして、自分には無関係だと「鍵を掛ける」ことで。己の日常を守り、正常を保つのである。

 

 そこにおいて、物語に展開を与えるべく「異常者」を登場させたことは。まさしく「匣に入れる作業」と呼べるものであり、「犯罪者心理」に対する説明を放棄していると言わざるを得ない。

 

 さらに遺憾なことに。本作に描かれている「凶悪犯罪」は、夢を追い創作に打ち込む者の尊い命が奪われることになった、未だ記憶に新しい「凄惨な事件」と重なる部分が多々ある。

 

 そのようにして「実際の事件」と「架空の事件」とを結びつけた上で、あたかも「精神病」が原因であるかの如く描写することは。「統合失調症」及び、その他の「精神疾患」に対する理解を歪めてしまうことになりかねない。

 

 

 では、ここで次に「肯定的」な意見について。

 

 本作においては『チェンソーマン』と同じく、日常に潜む「不条理」が描かれている。

 

「罪のない友人」の将来が無慈悲にも奪い去られてしまう中、犯人の「真の動機」について語られることはない。あくまで「騒動」の発端となった「新聞の一文」と、ニュース番組による「報道」がなされているのみである。

 

 では本当に、件の犯人は「統合失調症」を患った者なのだろうか?

 

 筆者は「違う」と推測する。

 

 この物語は終始、「創作者」について描かれている。

 

「絵を描くのが上手い」と友人にもてはやされ、得意気になっている主人公。

不登校」ながらも、主人公の遥かに上を行く画力をもつクラスメイト。

 

 彼女たちが偶然にも「運命的」にも出会ったことで、物語は動き始める。

 

 

 だがもしも。二人が出会うことなく、卒業していたのだとしたら?

 

 担任が「学級新聞の四コマ漫画の枠を一つ譲ってくれないか?」などと言い出さず、あくまで主人公のみに任せていたとしたら?

 

 主人公は中学、高校と進学する過程で(もしくは小学生の段階で)絵を描くことを辞めてしまうかもしれない。(多くの「天才たち」が、かつてそうであったように)

 

 あるいは「同志」と出会うことがなくとも、主人公は一人「漫画家」を目指していたのかもしれない。

 

 その過程において、主人公は「現実」に打ちのめされることになる。(あのままの画力ならば、無理もないだろう)

 

 その一方。主人公の「四コマ漫画」に憧れた不登校児は、進路を決める段階で「画家」を目指したかもしれない。

 

 そこで彼女もまた「現実の壁」にぶち当たることになる。(「引きこもり」のままでは、美大に通うことも難しいだろう)

 

 そこで「諦める」ことが出来たのならば、ある意味で幸福なのかもしれない。

 

 だがいつまでも「夢」を捨てきれなければ、彼女たちのその後の人生に暗い「影」を落とすことになる。

 

——なぜ、自分の画力は上達しないのか?

 

 こんなにも「努力」しているのに。

 

——どうして、自分の絵は他人に認められないのか?

 

 人より己の「才能」の方が優れているはずなのに。

 

 徒に時ばかりが過ぎ、嫉妬に駆られつつも、ふと立ち寄った「美大」において。若さ故の才能に溢れた絵を見て、こう感じるのではないだろうか?

 

——自分を罵倒する声が聞こえた。

 

 と。

 

 ここまでは無論、筆者自身の勝手な「妄想」であり。作者がどこまで意図したものなのかは分からない。

 

 だが筆者としては今作品が、「三人の」創作者たちの物語であるように思えてならない。

 

「同志」と「才能」に恵まれた「二人」と、それらを得ることの叶わなかった孤独な「一人」。さらに言うならば、多くの創作者たちが行き当たることになる「不条理」。

 

 それでも尚「絵を描くこと」は苦しくも楽しく、美しくも残酷だ、と——。

 

 

 最後に一つ、蛇足ではあるが。「蛇足」と言うならば、この物語における「後半部分」(主人公が想像した「別の未来」)がまさしくそうだ。

 

 いや、蛇足というのはやはり言い過ぎだろう。(筆者としては凄惨な結末のまま幕を閉じると思いきや、「続き」が描かれたことにやや意外性を感じたというだけだ)

 

チェンソーマン』においては、決して描かれることなかった「幸福な結末」。

 

 それでも、あえて作者が「その先」を描いたのは。作者なりの「登場人物たち」(主人公と友人だけでなく「犯人」においても)に対する「救済」なのかもしれない。

 

 そして。「不条理」に「救い」をもたらすこともまた、創作にしか出来ない「所業」なのだろう。

 

 

 

『差別』の根本とは、何か?――アメリカ黒人差別問題――

「コロナウィルス」の大流行がいまだ収まらぬ中

 

現在、世界で持ち上がっている、もう一つの『問題』がある

 

いや、何もそれは昨今突如として「飛来」した問題などではなく

 

あるいは「ウィルスとの戦い」と同じく、長い「歴史」で語られるべき

 

我々人類の中に存在する「病巣」との「戦い」の記録である

 

それは『人種差別』の問題だ

 

いわゆる「ジョージ・フロイドさんの死」に端を発した、今回の『運動』は

 

今や「世界」を巻き込んだ規模で展開され

 

これまで、どこか「対岸の火事」のような心境でいた、「日本」においても

 

「渋谷」での『デモ』などを中心に、大きく取り上げられ

 

まさに「全世界的」な『潮流』となりつつある

 

 

公民権運動」、「ロサンゼルス暴動」など

 

幾度となく『運動』や『暴動』が繰り返されてきた「歴史」の中

 

これまではどちらかといえば「アメリカ国内での問題」という様相を呈していた

 

『黒人差別』が、どうして今になって世界に波及しているのかといえば

 

そこにはやはり「SNS」の発達があるだろう

 

無論、「当事者」にとってはまさに「我慢の限界」であり

 

繰り返される歴史に、いよいよ「終止符」を打つべく

 

「立ち上がった」のだという見方もあるだろう

 

 

いわゆる「きっかけ」となった凄惨な「事件」から一ヵ月以上が経ち

 

ますます「運動」が激化し、様々な「意見」が飛び交う中

 

その「一部」では、『差別』というものを「少し違った視点」から捉え

 

人によっては「それはちょっと違うんじゃない?」と思われるような

 

「思想」や、それに伴う「運動」が起き始めている

 

例えば、ある「化粧品会社」が「美白」を謳った商品の販売を中止したり

 

ある「歴史的映画」が「黒人差別」を肯定していると批判を受けたり、など

 

『差別』というものを過剰に忌避するあまり

 

まるで「言葉狩り」の如く、その「意図」に関わらず「断罪」されているのだ

 

 

そういった「運動」自体の「正誤」についての言及は、ここではしない

 

むしろこの記事においては、より「根本的」な部分に焦点を当ててみようと思う

 

それはすなわち

 

『差別』の根本とは、何か?

 

という、まさに「根源的」な疑問である

 

それについては過去に一度、このブログにおいても取り上げたことがある

 

hiyokoneko13.hatenablog.com

 

「内容」や「主張」としては同種のものであり

 

ここで改めて書くに及ばないのかもしれないが

 

昨今の状況も踏まえたうえで、我々人類がその『問題』に立ち向かう中

 

あくまで「一筆者」の意見として、考えを述べさせて頂こうと思う

 

 

筆者の「主張」は五ヵ月前のものと何ら変わりはない

 

それを「一文」に要約するならば

 

「『差別』の根本とは『違う』からではなく、『同じ』とみなすことにある」

 

というものだ

 

まるで単なる「言葉遊び」のような、「逆張り」だけの意見に思われるだろう

 

だがそこにはもちろん、きちんとした「論理」がある

 

 

それについて解説する前に、まずは我々「日本人」にとって

 

『黒人差別』というものが、どのような「意味」を持つのか

 

それについて、これまで一度も「海外」に出たことがなく

 

「世界史」の知識もそこそこである

 

「浅慮」で「無知」である筆者の視点から述べさせてもらうならば

 

それはまさしく『他人事』である

 

「語弊」を恐れず、あえてそう言ったのだが

 

もちろん「『人種差別』なんてどうでもいい」とか

 

「『黒人』は虐げられてしかるべし」などと考えているわけではない

 

むしろ「同情」の気持ちや、それに伴う「怒り」の感情は少なからずある

 

にも関わらず、なぜあえてそんな言い方をするのか

 

また、そのような言い方をしなければならないのか

 

それは「島国」で暮らす我々にとって

 

『他民族』、『他人種』というものがあまり「日常的」なものではないからだ

 

 

たとえば「職場」、あるいは「隣人」、さらには「学生時代」を思い返して

 

果たしてそこに『外国人』という存在が、一体どれだけいただろう?

 

もちろん「環境」によってはそれなりに多くの『外国人』と接する機会もあるだろうが

 

筆者の「職場」には一人もおらず

 

「学生時代」においても、せいぜい学年に「一人」か「二人」の割合に過ぎなかった

 

それが我々日本人の日本における「現状」だ

 

そこにおいて、いわゆる『黒人』という人種の方を

 

「一度も見たことがない」という者はさすがに居ないだろうが

 

やはり生活に「密接」した存在とは言い難い

 

そんな我々にとって、『黒人』といえばまさしく『外国人』のことであり

 

(無論、「日本国籍」を持った方もいることは分かっている)

 

それはいわば日本における「お客様」であり

 

あくまで「期間的」に「もてなすべき」存在に過ぎないのだ

 

 

だが『他民族国家』である「アメリカ」などは違う

 

様々な『民族』、『人種』、あるいは『思想』や『宗教』が混在し

 

その「背景」はともかく、それらを受け入れることで「発展」を遂げてきた

 

それももちろん「環境」によるだろうが

 

そうした「国」においては、ごく当たり前に「自分と違う」人々が

 

それなり多く含まれる「社会」の中で日々生活を営んでいる

 

だからこそ『人種差別』というものは彼らにとって

 

より「深く」、日常に「根差した」問題であり

 

決して避けて通ることのできない「現実」なのだ

 

 

筆者はこの記事の冒頭で「対岸の火事」という言葉をあえて選ばせてもらった

 

それは、「無関係」を決め込むというスタンスによるものではなく

 

むしろ、どこか「無関心」で居られらずを得ないという「自戒」が込められているのだ

 

 

だがもちろん、『差別』というものは何も『人種』に限られたものではない

 

『性差別』や『部落差別』、『宗教差別』や『職業差別』に至るまで

 

実に様々な『差別』が、日本においても存在している

 

また『人種差別』にしてみても、それ自体は決して我々日本人に無縁のものではなく

 

たとえば『アジア人』に対する差別などは

 

「する側」、「される側」、その両面からも我々の中にあるのだ

 

 

それらの前提を踏まえたうえで、ここで改めて「本題」に戻ることにしよう

 

そもそも人類を問わず、「生物」というものにとって

 

『違いを見出す』ということは、生きていく上での必須の「能力」だ

 

たとえば「毒」かどうかを見分けるのもそうであるし

 

「味方」か「敵」かどうかを判断することにも、それは不可欠だ

 

それは時に「生死」を分ける重要なものであるし

 

我々生物は「進化」の過程で、さらには「成長」の途上で

 

その「能力」を磨き、高めてきた

 

それは「判別」と呼べるかもしれないし、「区別」と呼ぶべきかもしれない

 

だがやはり、それもまた『差別』の一種と呼べるだろう

 

 

「区別」と「差別」とは違う、と意見もあるだろう

 

だがそうした「言い換え」は、あくまで「方便」に過ぎないと言わせてもらう

 

あるいはそのどちらの「言葉」を用いたとしても良い

 

そもそもなぜ我々が「区別」しなければならないかといえば

 

それは前述の通り、「生きていくために必要」だからだ

 

そして「毒」や「天敵」と呼ばれる存在は

 

しばしば「薬」や「無害」を装って近づいてくる

 

何も野山に分け入らずとも、社会において

 

「詐欺師」はあたかも「善人」を偽って寄ってくるだろうし

 

物語の序盤においてあからさまな「悪人」は、後半では「いい奴」の顔を見せる

 

我々は「経験」からそれを知っているつもりであるし

 

あるいはどこかで、そうした「逆転」を「期待」しているのだ

 

 

ここで重要なことは、その『違い』において

 

「大きな差異」を我々が問題にするのではなく

 

むしろ「小さな差異」にこそ、我々はより「注意」を払うという点だ

 

たとえば「他の動物」、「犬」や「猫」を指して

 

「あいつらは人類とは違う」などと取り上げたりはしない

 

それは「明らかに違う」と分かりきっているからだ

 

もちろん「ペット」を「家族」のように扱うこともあるが

 

どこかでやはり生物として「異なる」ことは理解している

 

だから我々は「差異」ではなく、むしろその「共通項」にこそ注目する

 

 

ならば『他人種』についてはどうだろう?

 

「彼ら」が我々と『同じ』人間であることは分かりきっている

 

たとえ「いや、奴らは『奴隷』だ」とか

 

「いや、我々とは『肌の色』が違う」と言ってみたところで

 

それは明らかな「事実」なのだ

 

だが、それではいささか「都合が悪い」と考える

 

前述した通り、我々は「似ているものにこそより注意を払うべきだ」

 

と、あるいは「遺伝子」に書き込まれている

 

「同族嫌悪」というのは、その「共通項」を忌避するようでありながら

 

その実は、わずかに含まれる「差異」こそを嫌悪するものに過ぎない

 

そうして我々は『違い』を見出す努力をする

 

そのための「儀式」こそが、『差別』の根本なのだ

 

 

すなわち『同じ』であるからこそ、見つかるささやかな『差異』

 

あるいは『同じ』と「みなす」からこそ生じる、受け入れがたい『差異』

 

なぜ、同じ「人間」であるにも関わらず

 

「自分」と『肌の色』が、『言語』が、『思想』が違うのか

 

もしも、同じ「人間」であるならば

 

「自分」と「同じ」であって然るべきである

 

だがそうではない

 

だからこそ『違い』を見出そうとする

 

そうした「プロセス」こそが、『差別』の根本的原理なのだ

 

 

ここでもう一つ「例」を挙げよう

 

『民族差別』において、かつての「ドイツ」で

 

ある「政治家」が、ある「政策」を打ち出した

 

ユダヤ人大虐殺」、いわゆる「ホロコースト」である

 

その詳細については、学校教育で学んだ知識と少し調べたくらいのものでしかない

 

その「背景」については、「第一次世界大戦」の直後における

 

ドイツの「情勢」も大きく関わってもいるだろう

 

それは、かの「政治家」の「独断」でありながら

 

それは決して、彼のみを「弾劾」するべきものではなく

 

あるいは世界全体に及ぶ「問題」である

 

それについて、ここで詳しく語るつもりはない

 

筆者がここで述べたいのは

 

「なぜ、一部の特定の『民族』が虐殺されなければならなかったのか?」ではなく

 

「そもそも、どうやって虐殺する『民族』を特定するに至ったのか?」ということだ

 

少なくとも我々『アジア人』にとっては

 

かつての映像や教科書の挿絵を見る限り

 

『ドイツ人』と『ユダヤ人』との違いは明白ではない

 

あるいは彼ら自身にとっては、その「差異」は明らかであったのかもしれないが

 

もし、かの「政党」がその『宗教』や『思想』で彼らを判別したならば

 

その「違い」は外見から容易に分かるものではなかっただろうし

 

もし仮に、何らかの「戸籍」などの「データ」において判別していたとすれば

 

それはやはり「違い」を見分けることが困難であったのだろう

 

そのうえで『ユダヤ人』を選別したとするならば

 

その行為はまさしく、『同じ』ところからの『違い』の判別であり

 

選別を終えた後になって

 

やれ「『血が』」とか「『人種』が」、「『民族』が」

 

などと言ったところで、筋は通らないのである

 

「いや、そもそも見分けられていなかったし…」と

 

「無理やり『違い』を見つけただけじゃん…」と

 

まるで『差別』が「目的」にあるようで

 

実は「手段」に過ぎなかったという、矛盾がそこにはあるのだ

 

だからといって、かつての『大虐殺』において

 

差別意識はなかった」というつもりはもちろんない

 

むしろ政策を推し進めた、その「手段」にこそ

 

『差別』というものの根本が存在するのではないだろうか

 

 

我々はいかなる『他者』をも虐げるべきではないし

 

逆にいかなる『他者』にも虐げられるべきではない

 

それは『性差』、『民族』、『人種』、あらゆる『違い』においてもだ

 

そうした『差別』を無くしていくうえで

 

我々は『差別しない』ことだけを命題にして

 

「意図」せず含まれた『発言』を「狩る」のではなく

 

むしろ自らの内にある『差別意識』をきちんと受け入れた上で

 

その「表裏」にある『共通項』にこそ光を当てて

 

「同じであるべき」とみなすのではなく

 

「違いがあってしかるべき」ことを理解し

 

だからこそ「脅威ではない」と知ることこそが

 

『人種差別』を始めとする、あらゆる差別を根絶していくための

 

ある一つの「ヒント」なのかもしれない

「ゲーム」という娯楽における価値とは?

 

今回も筆者自身のある「体験」から記事を始めさせて頂こうと思う

 

 

先日、普段あまり話すことのない職場の人間と話しをする機会があった

 

「話すことのない」といっても、それは関係性や立場に起因するものではなく

 

いわば「タイミング」の問題であり

 

「あまり話したことがない」といったほうが正確かもしれない

 

 

筆者が普段、他者と話すうえで心掛けていることの一つに

 

「相手の話から何か得られるものを見つける」というものがある

 

もちろん、日常会話において「常に意識しているか?」といえばそんなことはなく

 

「中身のない他愛な会話」や「その場のノリ」に興じることも

 

それはそれで大好物ではあるのだが

 

自分の「得意分野」や「趣味嗜好」から外れた領域の話を聞くときは

 

特に、強く意識していることである

 

 

彼の名を仮に「Aくん」と置くことにしよう

 

Aくんはどちらかといえば、あまり口数の多いほうではなく

 

これまで彼の「内情」や「身の上」、あるいは「趣味嗜好」について

 

積極的に話す機会はなかった

 

もちろん、筆者としても無理にそれを聞き出そうと思っていたわけではない

 

たまたま休憩が一緒になり、控室で過ごすことになったので

 

この機会にと、とりあえず差しさわりのない会話から始めた

 

ここ最近の「社会的共通話題」といえばやはり

 

「コロナウィルス」についてである

 

その問題における、「社会の情勢」や「職場への影響」などを話した

 

Aくんは大学生の「バイト」である

 

次にAくんの学部についての話を聞き

 

そこからいよいよ「趣味」なんかの話にうつる

 

僕が決まって最初に聞くのは「音楽」の話であり

 

それについては、ここで何を話したかは覚えていない

 

つまり、その内容はあまり彼に「刺さる」ものではなかったらしい

 

そして、「普段何をしているの?」という質問から

 

いよいよ彼自身の「専門分野」に関する話を引き出す話を聞くことができた

 

彼の趣味は「ゲーム」だった

 

 

筆者自身も、子供の頃から人並にゲームを嗜んでおり

 

あまり巧くはないものの、それなりに「熱中」することもあった

 

そこでやや「前のめり」になりつつ

 

「どんなゲームをするの?」と当然の如く訊くことにした

 

彼から返ってきたのは、予想外の答えだった

 

Aくんが熱中しているゲームは「テトリス」だった

 

誰もが知っている「タイトル」であり

 

ある年代以下の者において、一度もやったことのない者は少ないだろう

 

誰でも簡単にプレイできるゲームであり、単純な操作性のものである

 

どうして彼がそこまで熱中しているのか分からなかった

 

だが、それは彼の「プレイ動画」を見てすぐに分かり

 

また、その一見して単純そうに見えるゲームの「奥深さ」についても

 

同時に解ったような気がした

 

それは僕の想像を遥かに凌駕するものだった

 

 

テトリス」というのは、一言でいえば「ブロックを積み上げていく」ゲームである

 

いわゆるプレイヤーの「領域」に次々と落下してくるブロックの「形状」を駆使し

 

「一段」揃えることでブロックが「消失」し

 

それによって「加点」、あるいは相手がいる場合は

 

相手に何かしらの「ペナルティー」を与えることで

 

相手プレイヤーを追い詰め、勝利していくというものである

 

そこには「正確な判断」と「正確な操作」が求められる

 

そして、多くの者においてそのゲームの「結末」は

 

ある種の「運」や「誤操作」によって決まるものである

 

ゆえに一般的には「単純で退屈なゲーム」と取られることが多い

 

だが、Aくんのプレイはそうした我々の「テトリスにおける認識」を

 

根底から覆すものだった

 

 

まず、ブロックの「落下スピード」がとてつもなく速い

 

それはまさに「目で追えない」ほどであり

 

常人には、次に落下してくるブロックの「形状」を確認することもできず

 

あたかも自動的に「下から」ブロックが積み上がっているように見えた

 

次々と「積み上がって」は「消え」を繰り返し

 

とてつもないスピードで展開していく

 

とても「スピーディー」なゲームだった

 

 

当然、Aくんのそのスピードに対抗できる「コンピューター」の相手はなく

 

彼が闘う相手は、別の「超人プレイヤー」であり

 

「コンピューター相手」では、そもそも勝負にすらならないというのが

 

彼の「悩み」でもあるらしかった

 

けれど彼からすれば、「自分はまだまだ」であり

 

その「自己評価」は我々には到底理解できないが

 

おそらく「謙遜」ではないのだろう

 

だが、それはともかくとして

 

その「神業」とも思える彼のプレイに、筆者は純粋な「感動」を覚えた

 

 

そして「凄い」と感じた「熱量」を

 

そのまま「別の誰かに話したい」というのも筆者の性分である

 

もちろん職場の人間に「言いふらす」なんてことはしたくなかったが

 

あくまでAくんの名前を伏せたうえで、職場外の知人に話すぶんには構わないだろうと

 

筆者は早速、その「神業」について他者に語ることにした

 

(あるいは、この記事の導入に過ぎない部分を

 

これだけの文章量で語ったこともその一つかもしれない)

 

だが、その知人の「反応」は僕の想像したものとは大きく異なっていた

 

知人の反応は筆者の熱量に対して、あまりにも「淡泊」なものだったのだ

 

 

テトリス」というゲームについては、もちろん知っていた

 

そして、その一見した「単純さ」についても、前述の通りである

 

だが、それは「いかに単純そうに見える事柄でも、極めれば凄い」という

 

話の展開における「意外性」という効果を期待するものだった

 

だが、筆者がいよいよAくんの「神業」について語る段においても

 

知人の反応は「へぇ~」といった、「感動」とはあまりにかけ離れたものであり

 

知人の感想は、口にこそ出さないまでも

 

「で?それが『何の役に立つ』の?」といったものに感じられた

 

 

あるいは、知人の感想はその通りであるかもしれない

 

いかに「テトリス」、いやそれ以外のゲームを極めたところで

 

それが「生活」において、どのような『価値』を持つかは不明である

 

一部の「ゲーム」においては、「大会」などの「技を披露する場」があり

 

それによってある種の「市場」を形成することもある

 

テトリス」において、そのような市場があるのかは分からないが

 

少なくとも、Aくんについては今のところ

 

「ゲームで金を稼ぐ」ところまではいってないようだ

 

だとしたら、彼のテトリスにおける「努力」は

 

他人にとって『価値』のない「徒労」であり

 

また、自己においても単なる時間の「浪費」に過ぎないのだろうか?

 

筆者は違うと思う

 

 

「時間」が有限であることは、まさしく自明であり

 

「資産」においても、個人差による開きはあれど、同じである

 

「時間」を「資産」の一部とするならば

 

全ての『資産』は有限であり、有限であるからこそその用途においては

 

自己の「意思決定」に委ねられる

 

全ての「消費」は、あるいは「投資」と換言することができ

 

「投資」と呼ぶからこそには、それによって得られる「利益」ばかりが重視される

 

だから、「利益」に結びつかないそれらの「消費」は

 

まさに「浪費」であり、「無駄」と切り捨てられる

 

だが、本当にそんな風に単純に割り切れるものなのだろうか?

 

 

例えば「スポーツ」における「努力」は

 

その者が「プロ」になれなければ、「無駄」に過ぎないのだろうか?

 

多くの者が「それは違う」と否定するだろう

 

部活で築いた「人間関係」、「肉体」と「精神」の向上

 

あるいは「礼節」や「努力することそれ自体の価値」など

 

いくらでも、その『価値』を見出すことは可能だ

 

ではなぜそれが、「ゲーム」においては見出せられないのか?

 

それについての論理は、未整理のままだ

 

 

昨今、「eスポーツ」など、一部のゲームにおいて

 

その技術や「エンタテイメント性」が取り上げられる世間的な動きもあり

 

ゲームというものが必ずしも「個人の浪費」とは呼べない

 

という論調が持ち上がってきた

 

だが、やはりまだまだその「市民権」が確立されたとはいえず

 

いまだに、それを単なる「無駄」と切り捨てる識者も少なくはない

 

「目が悪くなる」といった意見はまさしくその通りであり

 

今のところゲームというものが「視覚情報」にその重きを置いていることからも

 

決して見逃すことのできない「リスク」の一つである

 

だが、それはスポーツにおいても同じではないだろうか?

 

スポーツをする上でも「怪我」などのリスクは付きものだ

 

むしろ、ゲーム以上にその影響は深刻かもしれない

 

「スポーツをしていて怪我をするのは仕方ないが

 

ゲームをしていて視力が落ちるのは看過できない」というのは

 

単なる主観的、恣意的な意見に過ぎない

 

 

そして「ゲームをしていると頭が悪くなる」というのは、まさに

 

謂れのない、ある種の「偏見」による「情報操作」である

 

もちろん、「ゲームばかりしていてはいけない」というのはもっともであり

 

何事においても、「バランスを保つ」というのは肝要である

 

だがそれは、他の分野においても同じではないだろうか?

 

確かにゲームというものが、その「娯楽性」の高さによって

 

多くの子供たちによって容易に受け入れられ、熱中してしまうことによって

 

「子供」という、自分の将来を決定する「材料」の選択を

 

しばしば誤ってしまう存在においては

 

ある種の「危険」を孕んでいることは否定できないだろう

 

そこには時に「大人の判断」や「コントロール」が必要なのかもしれない

 

だがそれと同時に、やはり「ゲームからしか得られないもの」というのも

 

確実にあるはずである

 

それは「体験」を模した「経験」であり

 

決して「仮想」ではない、「成果による報酬」であり

 

「友人との結びつき」だ

 

それらは、決して無駄なものなどではなく

 

子供の「人格」を形成する上で、あるいは大人になってからも

 

しばしば思い出す、貴重な「体験」なのではないだろうか

 

 

筆者が子供の頃は、いわゆる「ポケットモンスター」が最盛期を迎えた頃で

 

ゲームボーイ」片手(両手)に、友人たちと遊んだものだった

 

「交換」や「対戦」、それらに熱中した日々を今でも鮮明に覚えている

 

もちろん、そこに「ゲーム」が無くとも

 

それはそれで別の「遊び」を見つけていたのかもしれないが

 

ゲームがあった日々というのが当たり前で

 

それが無かった日々というのを想像することは難しい

 

他にも「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」など

 

筆者は「RPG」の有名タイトルばかりを遊んでいたが

 

まだ「映像技術」の途上にある、それらのゲームにおいて

 

今にして思えば、あまりに陳腐にすら感じる「キャラクター」や「風景」に

 

感化され、「非現実」の中を遊び回っていた

 

初めて「ムービー」というものがゲーム内で登場したとき

 

それは雑な「ポリゴン」に絵を貼り付けただけの「のっぺり」としたものだったが

 

それでも筆者は「ムービーが入ってる!」と

 

限りない感動を覚えたことを記憶している

 

 

当時の「大人たち」からすれば

 

それはあまりに「稚拙な感動」であり

 

単なる「子供騙し」に過ぎなかったのかもしれない

 

だが、子供である我々にとってはまさしく

 

「何にも代えがたい感動」だったのである

 

そして、その感動を生み出していたのは紛れもなく

 

当時のゲーム開発者である「大人たち」であり

 

いつの時代も引き継がれる「大人と子供」の対立構造を

 

目に見えない相手ながらも、ゲームを通したその結びつきによって

 

解消させるものだったのかもしれない

 

 

物事の『価値』というものは

 

その者の「立場」や「状況」、「性差」や「年齢差」によって

 

往々にして変化するものである

 

全てのものに『価値』を見出すことは難しく

 

他者にとっての『価値』を否定することは簡単だ

 

だからこそ、全国民が従うべき「法律」において

 

ある価値を「規制」するに至っては

 

十分に考慮し、配慮していかなければならない

 

それは一律的な『時間的制約』であっては決してならず

 

あらゆる立場や状況、『価値』を勘案したものでなくてはならない

 

もちろん、一度決まってしまった法律ないしは「条例」については

 

従うべきだろうが

 

これからも盛んに議論していく必要があり

 

かつて「子供」だった全員に、その「義務」はあるのではないだろうか

 

「ワニくん」が安らかな「死」を迎えるためには?(炎上の理由について考えてみる)

 

『100日後に死ぬワニ』という「4コマ漫画」をご存知だろうか?

 

もはや説明の必要はないだろう

 

Google検索』で、「1」と打っただけで「予測変換」されるほど

 

今や「トレンドワード」になっている

 

 

そして、連載当初から読んでいた方も、途中から読み始めた方も

 

あるいは筆者のように最終話直前になってから「一気読み」した方も

 

この「作品」が今現在どのような『扱い』を受けているのか

 

いわゆる『100日目まで』と『101日目以降』で

 

どういった世間一般からの『受け入れられ方』の変化があるのかについても

 

すでに周知のことだろう

 

 

今回の記事はその『炎上』の理由について述べようと思ったが

 

ブログを書こうと「はてなブログ」を開いたところ

 

すでに、トップページに『本しゃぶり』さんという方の記事があり

 

honeshabri.hatenablog.com

 

拝読させて頂くと、『行動経済学』の観点で

 

『社会規範』と『市場規範』という考えを元に

 

分かりやすい「例」を用いて

 

「炎上の理由」と「大衆の心理」ついて

 

実に簡潔にまとめられていた

 

そしてその内容は、僕の当初構築していた「論理」を内包し

 

しかも、より優れた「論理」であった

 

 

ゆえに、「引用」させて頂いた時点で

 

当該記事についてさらに「言及」する必要はなく

 

すでに「解説」としての役目は果たされている、と考える

 

 

なので、今回の記事においては

 

「どうすれば『炎上』せずに済んだのか?」

 

換言するならば

 

「『ワニくん』は安らかな『死後』を送ることができたのか?」

 

について、その可能性を考えてみることで

 

より一般的な『炎上』の仕組みとその原因について

 

僕なりの意見を述べさせていただこうと思う

 

 

まずは、今回の例における「炎上の理由」について一言でいうなら

 

「急激な『商業路線』への転換」

 

にその原因がある

 

つまりは、「100日目」までのこの作品は

 

ネット社会における、「共通の財産」と認識されていた

 

それは「無償で提供」されていたことから推定され

 

さらに「カウントダウン」という斬新な要素が加えられたことで

 

皆が「経過」を観察し、「結末」を予想し合うという

 

ある種の「同時共感性」において、盛り上がりを見せた

 

それが、連載終了と同時にたちまち「書籍化」などの発表がされたことで

 

読者としては、我らの「共通財産」が侵害されたと感じたわけである

 

 

だとするなら、どうしていれば「営利化」による炎上が緩和されたかというと

 

その方法は実に単純であり

 

そもそも「最初から『利益化』の可能性」を示唆していれば良かったのだ

 

連載中の「無料公開」はあくまで「宣伝目的」と「拡散目的」であり

 

いずれは「商品化」を視野に入れていると宣言しておけば

 

きっと読者としてもそれほど「裏切られた」という気持ちにはならなかっただろう

 

 

だが、そもそも作者がこの漫画を描くにあたって

 

一体どの時点で「利益化の可能性」を考え始めたかについて

 

合理的に算定することは難しい

 

連載当初は全く考えてもいなかったかもしれないし

 

この作品が話題を集めた時点で意識し始めたかもしれない

 

あるいは、第三者によって「商品化」の話が持ち込まれた時点で

 

それに引きずられる形で、発想したのかもしれない

 

 

そして、そもそも「著作物」というものの「権利の帰属」についても

 

考えなければならない

 

当たり前のことだが、「創作物」というものは

 

他に特別の「契約」などがない限り

 

その権利は当然、「創作者」に帰属する

 

もし仮に、この漫画を全くの「第三者」が作者に無断で

 

「営利目的」に使用としたならば、もちろんそれは罰せられるべき問題だが

 

今回の例においては、作者自身が「営利化」を望み

 

その権利の当然の「行使」をしたに過ぎない

 

法律的に見ても、それ自体は何の問題もないように思える

 

だが、読者としては必ずしも納得することはできない

 

 

それは、すでにこの作品が作者の手を離れ

 

ある種の「人格」を付与されてしまったからに他ならない

 

つまり、「読者」は『ワニくん(あるいはその他の登場動物たち)』と

 

関係を結んだのであり

 

たとえ「作者」であっても、むやみにそこに干渉することは許さない

 

という、心理的な「対抗要件」だ

 

 

そうした感情は何も今回の例においてだけではなく

 

他の「創作物」においても、しばしば現れる心理だ

 

だが、この心理は何も作者にとって「不利益」ばかりに作用するものではない

 

なぜなら、作品が評価され、好まれる上で

 

この読者の感情は必要不可欠なものであり

 

作品の流行と「不可分」な要素でもあるからだ

 

そして同時に、読者と作者とが「同じ方向」を向いている(そう考える)限り

 

作者自身に対しても、この「好意的感情」は同じく適用される

 

 

だが、作者の「考え」あるいは「行動」が

 

読者の意図していたものと相違したことが分かると、たちまち

 

その感情は「懐疑的」ないしは「批判的」なものへと変換される

 

たとえそれが「作品」を生み出した「創造主」であろうと

 

それを免れることはできず

 

さらには作品自体にもその「悪感情」は波及し

 

ついに読者は「作品自体」をも憎むべき対象とする

 

そうした一連の「読者心理」の変遷が

 

今回の『炎上』における、感情的な要因だろう

 

 

ここまで読んでお分かり頂けるように

 

それは一見して、読者の「身勝手」のように思える

 

だが、それこそが『炎上』というものの本質であり

 

『炎上の理由』とはつまり、『感情論』でしかない

 

ということだ

 

今回の例において、主に議論されたものをまとめてみると

 

「作者がその作品において『経済的利益』を享受するのは当たり前」

「それにしても、あまりに性急過ぎはしないか?」

「『ワニくん』が金儲けのダシにされるなんて、ショック…」

 

といった意見が多く見られる

 

あるいは

 

電通案件だったのか!」

 

などの憶測が飛び交っているが(作者自身はこれを否定している)

 

ここで重要なのは、どちらがより『正論』であるか、などではない

 

 

例えば、著名人の「不倫」など

 

社会倫理的に見て、確かに「正しくない」と思われる問題かもしれない

 

「配偶者あるいは『家族』を悲しませ、傷つける」

 

それはまさしく『正論』であろう

 

だが、それは「民事」で争うべきことであって、決して「刑事事件」ではない

 

次に、著名人の「薬物使用」など

 

それについては確かに「犯罪」である

 

社会通念上許すべきではなく、あるいは更なる犯罪の原因となり得るかもしれない

 

これもまさしく『正論』でしかない

 

だが、その根拠を「社会規範」や「法律」に求めるならば

 

我々はその行為をした者について、『平等』に罰するべきである

 

だが、そうはしない

 

「炎上」の長引く者もいれば、あるいは何の問題にもされず

 

それさえも「ネタ」にしてしまう場合もある

 

そして、極論を言ってしまえば

 

「お前には関係ない」ということになってしまう

 

 

それでも、多くの大衆がその当事者の「属性」によって

 

容認できるか否かを『感情的に』判断し

 

あるいは多くの者が「黙殺」ないしは

 

自分の周りに感想を述べるに留まるのに対して

 

一部の者たちはより積極的に批判し、「炎上」を煽ることになる

 

それこそが炎上の正体である

 

 

だが、ここでご理解頂きたいのは

 

筆者は何も、他者を感情的に批判する者や炎上に加担する者を

 

否定するつもりは全くない

 

たとえそれが『感情論』であろうと

 

『正論』を装った『感情論』であろうと

 

確かにそれが『正論』であろうと

 

それは、発言者にとっての紛れもない『事実』に他ならないのだ

 

「人間は、感情の動物である」

 

というのは、すでに周知の事実であり、我々の実感を伴っている

 

その厳然たる事実を前に、「感情」と「論理」とを切り離すことは不可能である

 

「論理」は「感情」を内包し、逆もまた然りである

 

だからこそ我々は、「論理」という『正論』に含まれる「感情」を

 

より深く理解しておかなければならないのではないだろうか

 

 

何度も言うが

 

『正論』であることに意味などない

 

それは「反論者」を、より効果的にねじ伏せるための役には立つだろうが

 

人間の『感情』の領域においては、何の役にも立たず

 

他者の感情までも「屈服」させる要因にはなり得ないのだ

 

そして『炎上』とは、『正論』に決して屈することのない者たちによって

 

火種を植えられ、煽られてゆく

 

一度「炎上」したものに対して、『正論』をもってその「火消し」をすることは

 

まさに『火に油を注ぐ』ことになりかねず、より「大火」をもたらす事となる

 

 

もし筆者が作者の立場になっていたならば――

 

いわゆる『100日目』の漫画のあとに「○○まであと100日」と

 

あたかも「コンテンツの継続」を想起させるような

 

「カウントダウン」を継続させて

 

その間に読者に様々な「予想」、「憶測」をもたらせ

 

「続編あるんじゃね?」

「今度は『ねずみくん』が主人公、あるいは『ねずみくん視点』」

「『書籍化』かも…?」

 

などと考えさせておいて、『100日後』にようやく書籍化の「告知」をするだろう

 

だが、市場興味の移り変わりの激しい現代において

 

果たして、そうした経済的手法が効果的なのかは不明である

 

あるいは『100日後』には、『100日後に死ぬワニ』というコンテンツすら忘れ去られ

 

「ワニくん」は完全な「死」を迎えているかもしれない

 

「多様性」は人類の進化を妨げる要因となるのか?

 

昨今、様々な『価値観』や『考え方』が叫ばれている

 

もちろん、その『意見』自体は、現代になって突如現れた「突然変異」などではなく

 

元々、個人個人の胸の内に仕舞われていたものだった

 

だが、「前時代」の人々には、それを『発信』する手段がなく

 

たとえその機会が与えられたとしても

 

「少数派」の『主張』は、「多数派」の声にかき消され、淘汰されてしまっていた

 

 

現代において「SNS」の発達などにより、個人にも『発言』の場が与えられ

 

それが「公衆の閲覧」に供されるようになることで

 

各地に点在していた「少数派」同士が繋がり、「コミュニティ」が形成され

 

もはや「多数派」にとっても無視できないほどの、「一勢力」となるまでに至った

 

また、ネット社会の「匿名性」が作用することで

 

自らの「顔」と「名」のもとに、表立って『発表』することが憚られる内容であっても

 

「リスク」をそれなりに抑えた方法で、『呟く』ことができるようになり

 

それが広く「拡散」されることで、同じ『価値観』を持つ「非発言者」たちが

 

「孤立感」を無くし、「理解者」を得ることで

 

自らも「発言者」となる機会も増えた

 

 

そうした、いわゆる『多様性』をようやく「社会」が認識し、獲得し始めたことは

 

紛れもない「人類」における発展であり、『進化』の過程の一つであるのだろうが

 

その『進化』は、あるいは数多く存在する「生物」の中で「人類」だけが辿る

 

「少数派」の一途なのではないだろうか?

 

 

今回の記事では、生物の進化においてはかなり「特殊な例」である

 

『多様性』という進化を辿る「人類」について

 

他の多くの生物たちと比較することで、その進化の「本質」を紐解き

 

さらには「多様性とは何か?」という問いについて、考察していこうと思う

 

 

そもそも、生物における『進化』とは何だろう?

 

それは種の「保存」と「繁栄」のために欠かすことのできない「手段」である

 

多くの生物は「生息地域」という制約条件において

 

様々な「危険」や「問題」にさらされてきた

 

それは「外敵の危険」であったり、「食料確保の問題」であったりと

 

実に多種多様で、そうした危険を「回避」するために

 

はたまた問題を「解決」するために、それに対抗するために多様な進化を遂げてきた

 

ある者は、外敵の少ない「環境」で生きられる術を会得し

 

またある者は、他の種族では「食料」とならないものを「栄養」にする機能を獲得した

 

そうした「変化」はもちろん、「一世代」で成就するものではなく

 

何世代にも渡って少しずつ、変異していったものであると考えられている

 

つまりは、同種族が皆一様に「同じ方向」を向くことで

 

ようやくその「意思」が刷り込まれ、遺伝子に組み込まれることで

 

『多様な進化』と相成ったわけである

 

 

ここで重要なのは、「多様な進化」といえど

 

同じ進化を経た「同集団」においては、皆が同じ『価値観』を共有していたのであり

 

そこに『多様性』は存在しないということだ

 

換言するならば、違う「意思」や「考え」を持つ者たちは

 

それはそれで、全く別の種族としてのコミュニティを形成し

 

もはや「別の生物」として派生していったということだ

 

つまり生物の進化においては、その「一様性」こそが最大の鍵であり

 

「多様性」は、「分類学」においてしかその意味を為さないのだ

 

「私は空を飛べるようになりたい」

「俺は泳ぐのが好き」

という価値観の違いは、同種族においては認められず

 

その価値観を元に別々の進化を遂げたならば

 

それらは「異種族同士」とみなされることになる

 

(あるいはそれもまた、人類の勝手な「価値観」の押し付けなのかもしれないが)

 

 

そうした多様性を認めない「一様な進化」というものは

 

人類においては理解し難いものである

 

それは今のところ、人類の体の特徴や機能に明確に表れているものではないからであり

 

例えば、音楽愛好家の聴覚が他の者に比べて優れていると

 

一般に思われることはあっても、その機能が子や孫の世代に

 

確実に受け継がれるとは限らない

 

なぜなら、子や孫自身にもそれぞれの「価値観」が存在し

 

親とはまた違った「進化の過程」を歩むこともしばしば、だからである

 

そして、違う価値観や考えを持つ者たちを「異種族」として扱う

 

それは人類にとって「禁忌」であり、それをすることを我々は

 

『差別』と呼ぶ

 

つまり我々人類は、生物においては「一様性」こそ進化の本質であるにも関わらず

 

自らそれを否定し、「多様性」を含んだ自種族として容認しているのだ

 

 

次に、再び「生物の進化における『目的』とは何か?」について考えてみようと思う

 

前述の通り、それは「種の保存」であり「種の繁栄」のためである

 

より分かりやすく換言するならば、「多く子を残し、個体数を増やしていくこと」

 

に他ならない

 

だからこそ、成体になるまでに多くの危険が伴う種は

 

卵を多く生むことで、確率における「分母」を増やし

 

あるいは「子育て」によって、自らの「子」を守り、生き抜く術を伝授することで

 

「種の保存と繁栄」という、最大目的を達成しているのである

 

それはもはや、多様な生物進化における唯一の「共有事項」であり

 

異種族においても「多様性」を認めない部分でもある

 

 

それに引き換え、人間の「進化の目的」は何だろう?

 

例えば、「子供を産まない夫婦関係」が存在するという

 

「子を作れない、同性同士の恋愛」があるという

 

もちろん、この記事においてそれらの考えを持つ者を否定する意思は全くない

 

ただあくまで、生物における人類の「特殊性」として挙げているだけだ

 

本来は性別によってその「役割」が明確に規定されるはずが

 

「男が外で働いて、女が家事をする」という古いしきたりを

 

「平等ではない」とする

 

「異性と生活するのは面倒そうだから、結婚はしない」という考えの者がいる

 

それらは生物の進化の歴史においては、およそ考えられない「特殊」なものだ

 

むしろ、真っ先に否定され、淘汰されていいという考えまである

 

 

だが、我々人類はそんな進化と逆行するとまで思える「多様性」を認めている

 

それこそが生物史における、人類の「特殊な例」であり

 

他の生物にはない『進化』なのではないだろうか?

 

 

どうしてそのような進化を人類が遂げるに至ったか

 

その理由はもはや明確である

 

我々人類は他の生物にはない「高い知能」を獲得している

 

(それもまた人類の傲慢に過ぎないのかもしれないが)

 

道具を扱い、情報量の多い「言葉」や「文字」を発明することで

 

自らの意思や考えを「一子相伝」ではなく、後世の多くの者たちに残す術を会得した

 

あるいはそれこそが人類における最大の『進化』と呼べるのかもしれないが

 

とにかく我々が、そうしたピンポイントな「伝達手段」を得ることで

 

それと同時に、「個人の意見」を発信する術を得たといってもいい

 

そして、道具の扱いはやがて「文明の発展」へと繋がることで

 

我々は「天敵」を増やすことなく、その生息範囲を拡大していった

 

さらに、科学と知識の発達は、我々に「毒」を持つ生物すら食べようと

 

珍味として嗜もうという、生物としてはおよそあり得ない「進化」をもたらせた

 

そうして、種族としての天敵もなく、食料すらも自足するようになった我々人類は

 

やがて、種族としてのこれ以上の「進化」を止め

 

代わりに「多様性」を獲得していったのである

 

 

何度も言うように、それは生物の進化の歴史においてはあり得ないことであり

 

かなり「特殊な例」である

 

我々はそれを、高い知能と外敵や食料に脅かされることのない

 

まさしく「生態系の頂点」という地位を獲得することで享受した

 

『多様性』とはまさに、人類だけが持つ生物としての「優位性」であり

 

人類だからこそ獲得することのできた「特殊性」であり

 

人類の叡智が結実したことによってようやく表れた

 

人類独自の『進化』の一途であるといえるのではないだろうか

「転売ヤー」は、断罪されるべきなのか?

 

『コロナウィルス』による影響が深刻化、長期化する中

 

薬局、スーパー、コンビニの店頭から、次々と姿を消したものがある

 

それは「マスク」を始めとする医薬品だ

 

 

「需要」と「供給」という経済の基本原理からすれば

 

それらの『品薄』もまた、当然のことのようにも思えるが

 

すでに周知の通り、そこには個人の「消費活動」とは異なる

 

「ある原因」があり、その原因を引き起こした「ある者たち」の存在がある

 

 

転売ヤー』という言葉を聞いたことのある方も多いだろう

 

「『転売』という行為」と「『バイヤー』という人」とが合わさった造語である

 

そして、その「行為」あるいは「行為をする人」が

 

近年、メディアやネットを中心に取り上げられ

 

その是非について、盛んな議論が繰り広げられている

 

 

そもそも「転売ヤー」という言葉が登場し

 

「転売」という行為が問題視され出したのは

 

今回の「コロナウィルス」が流行するよりもずっと前のことだ

 

「コンサートチケット」や「グッズ」、「ゲーム」など

 

需要に対して供給が著しく追いつかない

 

あるいは限定的である『商品』において

 

その『付加価値』に目を付けた一部の者たちが

 

「個人の使用」ではなく、「経済的利益の獲得」を目的として

 

購買活動を始めたことが発端だ

 

 

当時からそうした行為、あるいは「商売」については

 

他の消費者から様々な批判の声が寄せられていた

 

それが今回「医薬品」という、ある意味では人命に直結する「商品」について

 

同じく「転売」が行われたことで、国民の不満と怒りはピークに達し

 

ついに先日「マスクの転売」を禁止する法案が検討されることとなった

 

 

だが、ここで理解しておかなくてはならないのが

 

今回の規制は「国民生活安定緊急措置法」という

 

どちらかといえば「例外的」な

 

「特別状況下」における法律を根拠にしているのであって

 

「転売」という行為そのもの取り締まるものではないということだ

 

転売ヤー、爆死(笑)」「転売ヤー、ざまぁ」など

 

ネットでは、ついに「憎むべき敵」に「正義の鉄槌」が振り下ろされたような

 

ある種の「勧善懲悪ムード」が満ちている

 

確かに「マスクの転売」をしようとしていた一部の「転売ヤー」たちは

 

経済的打撃を被ったかもしれないが

 

彼らは「『マスクの転売』を規制されたなら、次は別のものを」と

 

次なる「商材」に目を向けるだろうし

 

当然のことながら『転売』という行為そのものが撲滅されたわけではない

 

 

そして、過去の記事でも散々取り上げてきたことだが

 

一部の者たちの行動を例にとって

それを同じ枠組みの別の者に簡単に適用することはできない

 

今回の件についていえば

 

「人命にも関わる『マスク』を、しかもこの非常事態下で

 

自分の利益のためだけに利用するなんて、『転売ヤー』は非人道的だ」

 

と思った方も多いだろう

 

それによって「『転売ヤー』は憎むべき人類の敵だ」と

 

彼らを一括りにして、カテゴライズしたことだろう

 

だが、転売ヤーの全員が今回の「マスク騒動」に関わっているわけではない

 

むしろ、自らもその行為を「悪」と考え、同じ転売ヤーである彼らのことを

 

我々と同じように、糾弾する姿勢を取った者も多いはずだ

 

にもかかわらず、我々はいつの間にか「転売ヤー」と聞くと『全て同じ』だと

 

考えてはいないだろうか?

 

その思考は『差別』と何ら変わりのないものであるということを

 

我々は肝に銘じなくてはならない

 

人をその行為やカテゴリーだけで、一概に判断することはできないのだ

 

 

少し話が逸れたが…

 

今回の記事はさっきから何度も出している

 

転売ヤー」について、その行為は断罪されるべきなのか?

 

というテーマについて、論じていこうと思う

 

最初に言っておくが

 

僕は此度の「マスクの転売」については

 

それがれっきとした「商行為」であるとかないとか以前に

 

まさしく論外であると思う

 

僕のその意見は、何も法律や規制を論拠にしたものではなく

 

単なる個人的な「感情論」であり、そこに根拠と呼べるものはない

 

そして、医薬品以外の「商品」の転売についても

 

やはり僕は「本当に欲しい人の手に渡らなくなる」や

 

「本当に欲しい人が必要以上に高い出費をしなくてはならなくなる」といった

 

やはり「感情論」によって、いまいちその行為を「善」だと認めることはできない

 

 

それでも、自分と相対する考えや行為についても

 

やはり、その『正当性』を論じることは

 

「公平性」あるいは自身の「勉強」として大事なことだと、僕は考える

 

だから僕はこの記事において、あくまで「公平な視点」を持って

 

「転売」というものについて、述べていこうと思う

 

転売ヤー」を批判する目的や、逆に擁護するという目的で

 

この記事を書いているわけではない、ということをどうかご理解いただきたい

 

では早速、始めていこう

 

 

まず、「『転売』自体が規制されるような法律がないのか?」

 

について、考えてみよう

 

それについては主に三つの理由が挙げられると思う

 

・「転売目的」なのか判断することが難しい

・自分にとって「不要なもの(不要になったもの)」の売買を禁止するべきか

・「正当な商行為」としての一面を持つ

 

以下で、順番に説明していこう

 

・「転売目的」なのか判断することが難しい

 

これについては、まさにそのままだ

 

ある「商品」を「買う」という行為について

 

その目的をただちに合理的に算定することは難しい

 

「商人」は誰しも「消費者」としての一面を持つ

 

そのどちらも日常的に「買う」という経済的活動を行うが

 

果たしてそれが「仕入れ」なのか「消費」なのかを判断するには

 

その者の「趣味嗜好」、「継続性」、「資金力」について

 

総合的に検討しなくてはならない

 

つまり当人にとっては「消費」のつもりであっても

 

「大量購入」が場合によっては、「仕入れ」とみなされることもある

 

逆に「仕入れ」という明確な意思があったとしても

 

当人が「自分が欲しいから買った」と言えば、それまでなのだ

 

例をあげるなら、本屋やおもちゃ屋で行われている「一番くじ」など

 

そのコンテンツをこよなく愛し、それなりの私財を投じても構わない

 

と考えている者にとっては、いわゆる「ロット買い」も

 

あくまで個人としての「消費」である

 

他人にいくら「転売目的だろう」と推定されようとも

 

ただちにそれを転売目的と「みなす」ことはできない

 

だからこそ、その判断は難しく

 

店側はあくまで「転売目的禁止」という注意書きを出すことくらいしかできない

 

 

・自分にとって「不要なもの(不要になったもの)」の売買を禁止するべきか

 

一つ目が「仕入れ」か「消費」かについて言及したものであるならば

 

これについては、あくまで「消費」として購入したものが

 

当人にとって「必要」か「不要」かについて言及したものだ

 

だがもちろん、当人にとっては「不要」になったからこそ売るのである

 

そして、「必要」から「不要」への『価値の移行』は

 

当人にしか分からないことである

 

最初から個人の消費において「不要なもの」を買ったのか

 

あるいは時の経過によって「不要なもの」になったのか

 

それを判断するのはやはり難しい

 

例をあげるなら、人気アーティストの「コンサートチケット」など

 

購入当初は「行きたい!」と思っていたものの

 

やむを得ない事情や予定によって、「行くことができない」状況になったとする

 

個人的な事由による「チケットの払い戻し」はなかったとして

 

であれば、第三者にそれを売ることで自らの「損失」を取り戻すという行為は

 

果たして「転売」といえるのだろうか?

 

 

ここで、反論もあるだろう

 

もし本当に「不要」になったのなら

 

「自分が元々支払った額面で『売る』べきだ」と

 

そうであれば「転売目的」であるとは言えない

 

自分が被るはずであった「損失」を相殺するべく

 

「同じ金額」で『売る』ならば、単なる「消費の受け渡し」であり

 

「それ以上の金額」で『売る』ならば「転売」だと

 

その意見はもっともである

 

だが、そこにも反論が生じる可能性がある

 

 

当人がそのコンサートに行こうとするにあたって

 

すでにホテルの予約を終え、旅行券を手配済みだったする

 

当然それにはキャンセル料が発生する可能性もあるし

 

旅費の払い戻し等についても「満額」とはいかない場合もある

 

あるいは、友人などを誘い

 

「一緒に行ってくれるなら、チケット代の一部は自分が出す」

 

と言っておきながらも、結局友人だけは行くことになり

 

自分が当初掲示した額を、付き合い上仕方なく出さなければならない場合など

 

それによって自らが被る「経済的損失」を埋めるため

 

少しばかり「欲張った」として、果たしてそれをただちに「転売目的」と

 

断じることができるだろうか?

 

先の例にあげた「一番くじ」の「ロット買い」についても

 

くじの性質、販売の特性上、どうしたって「同じもの」が当たってしまうわけで

 

それを「くじ単体」の価格で売るのか、それとも「賞」のランクによって

 

売却価格に多少の差をつけるべきか

 

それは難しい問題である

 

なぜなら、「くじ単体」で買った者では

 

本来得られなかった「経済的価値」を受け渡すことになり

 

それは「くじを引く」という行為そのものにおける

 

「娯楽性」を差し引いたものであるのかもしれないが

 

当人にとっても、「ロット買い」をすることで

 

その「娯楽性」はただちに失われたのと同義で

 

やはり納得できないものである

 

だからこそ「市価」より高く掲示されたからといって

 

その目的を「転売」と断じることは一概にできないのである

 

・「正当な商行為」としての一面を持つ

 

そして最後にこれについてだが

 

これは「転売」という行為についての「商行為」としての正当性によるものである

 

そもそも世の中の多くの「商品」は「転売」によって流通している

 

「製造元」から「問屋」が仕入れ、それを「一般消費者」に販売することで

 

経済は成り立っている

 

我々消費者はそれによって、わざわざ販売元に出向くという手間をかけず

 

「継続的大量購入」によるディスカウントの恩恵を享受している

 

 

もちろん、ここにも反論はあるだろう

 

転売ヤーの扱う「商品」は、そのほとんどが「市場価格」による仕入れであり

 

我々はその商品を「適正価格」で買う機会があった、ということだ

 

それを「値下げ」するならまだしも、「値上げ」するのはけしからん、と

 

だが、やはりこの点においても議論の余地はある

 

そもそも「市場価格」、「適正価格」というのは何だろう?

 

それは「メーカー小売希望価格」であったり「流通価格」であったりと

 

元々「誰か」によって一方的に決められた「値段」だ

 

「原価」を「売価」にしたのでは、もちろん販売元に「利益」が上がるはずもなく

 

そこには「付加価値」という要素が含まれる

 

それは「販売コスト」であり、「手数料」と一般に呼ばれるものだ

 

ではそれらが「正当な商行為」とされ、転売が「不当な商行為」とされる

 

その違いは一体どこにあるのだろう?

 

 

さらにいえば、「株」や「債権」、「デリバティブ」といった取引は

 

そもそも「転売」がその商品の本質となっている

 

値上がりしたことで、その「商品」ないしは「権利」を売買して利益を得たとして

 

それを「不当」と断じられることはない

 

 

以上のことから、「転売」という行為はあくまで

 

購入後もその商品が「市場価値」を保ち続け

 

「限定的価値」によって、それが引き上げられることによって

 

起きる問題といえる

 

そして、「市場の独占」的な要素が加わることでさらに加速する

 

だが、転売ヤー同士の「横のつながり」は強固なものではなく

 

あくまで「個人」としての購買活動により、結果的にそうなってしまうのであって

 

そこに「一グループの独占」を適用することは難しい

 

 

もしも、国民的人気「RPG」のように

 

どんな場合においても、「売却価格」は「購入価格」の『半額』とするならば

 

我々の「消費活動」、あるいは「経済活動」はもっと単純明快であり

 

そこに議論の余地はない

 

だが、それだと販売元である「武器屋」や「防具屋」がただ一方的に儲ける

 

まさに『独占市場』が出来上がるのは必至だ

 

 

我々にできることは今のところ

 

「『転売ヤー』から買わない」という

 

ごく当たり前の結論であり、最終的にはそこに行き着くことになる

 

 

転売ヤー」という相手の立場に立って考えてみることで

 

ほんの少しは、『経済』というものについて

 

それを法律によって規制することの難しさと

 

それを断行することによる「不自由さ」について考えて頂けたのならば

 

この記事の「市場価値」はそれなりに高まるというものである

 

 

コロナウィルスの保菌者忌避で、小学校の「バイキン扱い」を思い出した

 

正直、今この話題について触れるべきかどうか、ここ数日迷い

 

触れるにしても一体何を語るべきか?

 

自分の無責任な発言によって、デマが拡散されたり

 

特定の誰かを、不用意に傷つけたりするのは避けたかった

 

 

各団体が被害の「拡大防止」の対応に迫られる中

 

つい先日、首相から全国の小中高校の「臨時休校」が要請され

 

国内のテーマパークが次々と「臨時休園」を発表した

 

まさに「緊急事態」と呼ぶべき状況において

 

僕にできることいえば、「人混み」を避け

 

「手洗いうがい」を徹底することくらいだ

 

 

それでも僕は今この記事を書こうとしているのは

 

「LINE」のタイムラインで、「ある投稿」を目にしたのがきっかけだった

 

その投稿者は、例の「クルーズ船」の乗客だった

 

とはいえ、僕の直接の知り合いではなく

 

顔も知らず、本名さえ知らない人物である

 

あくまで僕の知人の知人であり、僕と直接的な関係性はない

 

それでも、そこに書かれた内容は

 

まさに「被害者」としての悲痛な叫びだった

 

 

ここで、その投稿者の文章を引用したり

 

その人物がどんな内容を語っていたのかについて

 

深く掘り下げるつもりはない

 

Twitter」などではなく、タイムラインに投稿しているということは

 

それほど不特定多数に拡散を希望しているわけではないのだろうし

 

そもそもプライバシーの問題もある

 

だから、僕がこの記事で語る内容は

 

あくまで、その投稿を目にしたという「きっかけ」によって

 

僕が勝手に考え、思ったことを書いているだけで

 

その投稿者の意見を「代弁」するものではなく

 

むしろ、投稿者からすれば「的外れ」な意見であるかもしれない

 

ということは、最初に断っておく

 

 

では、いよいよ本題に入らせて頂くが

 

医療関係者ではなく、『コロナウィルス』についての

 

詳しい知識や予防法を有しているわけでもない僕が

 

語れることは、やはり限られている

 

だから、僕は『コロナウィルス』そのものについて書くのではなく

 

あくまで「感染症」が流行する中

 

「感染」を恐れながらも日々を送る

 

人々の心理と行動原理、そしてそこから生み出される

 

ある種の「別の病気」について主に述べさせて頂こうと思う

 

 

今回の「コロナウィルス」に限らず

 

広義の意味での「病気」において、最も恐ろしいのは

 

それが「目に見えない」ということだ

 

もし仮に「病原菌」というのが目に見えるほど大きく

 

例えば「昆虫」くらいの大きさであったら

 

(それはそれで恐怖を感じるだろうが…)

 

少なくとも、「予防」はより簡単になるだろう

 

だが当然の如く、目には見えない

 

だからこそ、我々はその「存在」が身近に迫ってきているのかさえ確認できず

 

「目に見える」全てについて、疑ってかからなくてはならない

 

「この場所」にはどれだけの「菌」が蔓延しているのか?

 

「この人」は「保菌」しているのではないか?

 

そんな目視確認できず、実証のできない状況が

 

さらに人々を不安にさせ、疑心暗鬼に追い込む

 

 

こうした状況下で、僕は表題にも書いた

 

ある「体験」を思い出した、それは

 

小学校で流行った「バイキン扱い」だ

 

何も僕の通っていた小学校だけでの、特別の事例などではなく

 

それに近い「遊び」あるいは「いじめ」は、どこの小学校で起きていることだろう

 

ある日突然、一人のクラスメイトが

 

「感染者」ないしは「保菌者」として扱われ始める

 

(もちろん、小学生はそんな難しい言葉は知らないだろうから

 

むしろ、その者自身を「バイキン」として扱う場合も多い)

 

その者に接するだけで「病気」が「ウツる」と言われ

 

周囲の者はわけも分からぬまま、その人物を避ける

 

積極的な「媒介者」が、すすんでその人物に「タッチ」し

 

その触れた手を振りかざして、周囲の者を追い回す

 

接触者」は楽しんで、あるいは無意識にやっている遊びなのだろうが

 

対象にされた当事者の心に深く傷を残す結果となることは、言うまでもない

 

 

ここでさらに問題なのは

 

普段はいじめに積極的に加担することのない「傍観者」も

 

「媒介者」に追い回されることで、それから逃げてしまうということだ

 

いくら小学生であろうと「○○菌」なんてものが本当に存在するなどとは思っていない

 

(もしその人物の名前が冠せられるならば、その者は「発見者」であり

 

人類の医学や科学における発展の功績を評価されるべきだ)

 

それでも、つい「その手」を避け、逃げ出してしまう

 

なぜなら、その手に触れられたことで、今度は自身も「感染者」となり

 

「隔離」され「拒絶」される、『不当な理由』ができてしまうからだ

 

 

僕は今回の「クルーズ船」の乗客の置かれている状況について

 

そういった『小学校のいじめ』のような不当さを感じた

 

 

もちろん、反論はあると思う

 

その第一の論理として予想されるのは

 

『コロナウィルス』は現実に起きている問題であり

その「病原体」は架空のものではない

 

ということだろう

 

そして、それはまさしくその通りで

 

「○○菌」に感染(?)したところで発症することはないが

 

「コロナウィルス」に感染すれば、あるいは死んでしまうことだってある

 

だからこそ、その予防に全力を注ぎ

 

感染の可能性がある者を避けるのは当たり前のことだ

 

確かに何ら論理に瑕疵のない『正当な理由』である

 

 

だが、当事者にとってそれがやはり『不当な扱い』であることに代わりはなく

 

我々が忘れてはいけないのは

 

人は『悪』を振りかざすときより、『正義』を振りかざした時の方が 

より残酷に、非道になれる

 

ということだ

 

「いじめ」についてもそれは同様であり

 

「アイツがウザいから」とか「アイツがキモいから」など

 

客観的に見て、それが明らかに自分の「主観」であり

 

自分に少なからず「落ち度」がある場合においてより

 

周囲を巻き込み、周囲の「賛同」を得られたと錯覚し

 

だからこそ自分は大衆の「代表者」であると、『正当さ』を主張し始めた途端から

 

より「深刻化」する

 

さも自分が「悪者」を排除する、「正義の味方」であるかのように振舞う

 

それこそが、より危険な兆候であり

 

もはや、その者を止める手段は数少ない

 

 

それと同じ心理と行動原理が、大衆にもたらせられているのではないだろうか?

 

あくまで自分は「ウィルス」から身を守りたいのであって

 

「保菌者」を排除したいわけではない

 

ある者はそう言うかもしれない

 

けれど、「ウィルス」自体が目に見えない以上

 

「征伐」の矛先は、どうしたって「保菌可能性を持つ者」へと向けられる

 

自分自身だけではなく、愛する者や家族にもその危険が及ぶ可能性があるとなると

 

さらに警戒は強められ、強大な「大義名分」を得ることになる

 

 

思えば、これまでの人類史において幾度となく芽生えてきた『差別意識』は

 

自分と、その周囲の「守るべき者たち」を保護するために生まれた

 

生物としての「生存本能」なのかもしれない

 

だからこそ、この問題もまた根深く

 

そう簡単に人々の意識から消し去れるものではないかもしれない

 

あるいは「コロナウィルス」が完全に収束し

 

人々の危機管理意識の中から完全に忘却されるまで

 

「保菌可能性者」に対する『差別』にも似た『不当な扱い』は続くのかもしれない

 

 

だからこそ我々は、その「当事者たち」に

 

もしかすると自分もなっていた可能性があり

 

いまだにその可能性があることを十分に理解し

 

自分も「当事者」自身の立場に立って考えてみることが大切なのかもしれない

 

 

病気から身を守ることは大切であり、その予防には全力を注ぐべきだが

 

最も人類の命を奪ってきたのは「病原体」や「自然災害」ではなく

 

「人類自身」であることを、深く心に刻んでおくべきだ