ひよこねこ

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「ワニくん」が安らかな「死」を迎えるためには?(炎上の理由について考えてみる)

 

『100日後に死ぬワニ』という「4コマ漫画」をご存知だろうか?

 

もはや説明の必要はないだろう

 

Google検索』で、「1」と打っただけで「予測変換」されるほど

 

今や「トレンドワード」になっている

 

 

そして、連載当初から読んでいた方も、途中から読み始めた方も

 

あるいは筆者のように最終話直前になってから「一気読み」した方も

 

この「作品」が今現在どのような『扱い』を受けているのか

 

いわゆる『100日目まで』と『101日目以降』で

 

どういった世間一般からの『受け入れられ方』の変化があるのかについても

 

すでに周知のことだろう

 

 

今回の記事はその『炎上』の理由について述べようと思ったが

 

ブログを書こうと「はてなブログ」を開いたところ

 

すでに、トップページに『本しゃぶり』さんという方の記事があり

 

honeshabri.hatenablog.com

 

拝読させて頂くと、『行動経済学』の観点で

 

『社会規範』と『市場規範』という考えを元に

 

分かりやすい「例」を用いて

 

「炎上の理由」と「大衆の心理」ついて

 

実に簡潔にまとめられていた

 

そしてその内容は、僕の当初構築していた「論理」を内包し

 

しかも、より優れた「論理」であった

 

 

ゆえに、「引用」させて頂いた時点で

 

当該記事についてさらに「言及」する必要はなく

 

すでに「解説」としての役目は果たされている、と考える

 

 

なので、今回の記事においては

 

「どうすれば『炎上』せずに済んだのか?」

 

換言するならば

 

「『ワニくん』は安らかな『死後』を送ることができたのか?」

 

について、その可能性を考えてみることで

 

より一般的な『炎上』の仕組みとその原因について

 

僕なりの意見を述べさせていただこうと思う

 

 

まずは、今回の例における「炎上の理由」について一言でいうなら

 

「急激な『商業路線』への転換」

 

にその原因がある

 

つまりは、「100日目」までのこの作品は

 

ネット社会における、「共通の財産」と認識されていた

 

それは「無償で提供」されていたことから推定され

 

さらに「カウントダウン」という斬新な要素が加えられたことで

 

皆が「経過」を観察し、「結末」を予想し合うという

 

ある種の「同時共感性」において、盛り上がりを見せた

 

それが、連載終了と同時にたちまち「書籍化」などの発表がされたことで

 

読者としては、我らの「共通財産」が侵害されたと感じたわけである

 

 

だとするなら、どうしていれば「営利化」による炎上が緩和されたかというと

 

その方法は実に単純であり

 

そもそも「最初から『利益化』の可能性」を示唆していれば良かったのだ

 

連載中の「無料公開」はあくまで「宣伝目的」と「拡散目的」であり

 

いずれは「商品化」を視野に入れていると宣言しておけば

 

きっと読者としてもそれほど「裏切られた」という気持ちにはならなかっただろう

 

 

だが、そもそも作者がこの漫画を描くにあたって

 

一体どの時点で「利益化の可能性」を考え始めたかについて

 

合理的に算定することは難しい

 

連載当初は全く考えてもいなかったかもしれないし

 

この作品が話題を集めた時点で意識し始めたかもしれない

 

あるいは、第三者によって「商品化」の話が持ち込まれた時点で

 

それに引きずられる形で、発想したのかもしれない

 

 

そして、そもそも「著作物」というものの「権利の帰属」についても

 

考えなければならない

 

当たり前のことだが、「創作物」というものは

 

他に特別の「契約」などがない限り

 

その権利は当然、「創作者」に帰属する

 

もし仮に、この漫画を全くの「第三者」が作者に無断で

 

「営利目的」に使用としたならば、もちろんそれは罰せられるべき問題だが

 

今回の例においては、作者自身が「営利化」を望み

 

その権利の当然の「行使」をしたに過ぎない

 

法律的に見ても、それ自体は何の問題もないように思える

 

だが、読者としては必ずしも納得することはできない

 

 

それは、すでにこの作品が作者の手を離れ

 

ある種の「人格」を付与されてしまったからに他ならない

 

つまり、「読者」は『ワニくん(あるいはその他の登場動物たち)』と

 

関係を結んだのであり

 

たとえ「作者」であっても、むやみにそこに干渉することは許さない

 

という、心理的な「対抗要件」だ

 

 

そうした感情は何も今回の例においてだけではなく

 

他の「創作物」においても、しばしば現れる心理だ

 

だが、この心理は何も作者にとって「不利益」ばかりに作用するものではない

 

なぜなら、作品が評価され、好まれる上で

 

この読者の感情は必要不可欠なものであり

 

作品の流行と「不可分」な要素でもあるからだ

 

そして同時に、読者と作者とが「同じ方向」を向いている(そう考える)限り

 

作者自身に対しても、この「好意的感情」は同じく適用される

 

 

だが、作者の「考え」あるいは「行動」が

 

読者の意図していたものと相違したことが分かると、たちまち

 

その感情は「懐疑的」ないしは「批判的」なものへと変換される

 

たとえそれが「作品」を生み出した「創造主」であろうと

 

それを免れることはできず

 

さらには作品自体にもその「悪感情」は波及し

 

ついに読者は「作品自体」をも憎むべき対象とする

 

そうした一連の「読者心理」の変遷が

 

今回の『炎上』における、感情的な要因だろう

 

 

ここまで読んでお分かり頂けるように

 

それは一見して、読者の「身勝手」のように思える

 

だが、それこそが『炎上』というものの本質であり

 

『炎上の理由』とはつまり、『感情論』でしかない

 

ということだ

 

今回の例において、主に議論されたものをまとめてみると

 

「作者がその作品において『経済的利益』を享受するのは当たり前」

「それにしても、あまりに性急過ぎはしないか?」

「『ワニくん』が金儲けのダシにされるなんて、ショック…」

 

といった意見が多く見られる

 

あるいは

 

電通案件だったのか!」

 

などの憶測が飛び交っているが(作者自身はこれを否定している)

 

ここで重要なのは、どちらがより『正論』であるか、などではない

 

 

例えば、著名人の「不倫」など

 

社会倫理的に見て、確かに「正しくない」と思われる問題かもしれない

 

「配偶者あるいは『家族』を悲しませ、傷つける」

 

それはまさしく『正論』であろう

 

だが、それは「民事」で争うべきことであって、決して「刑事事件」ではない

 

次に、著名人の「薬物使用」など

 

それについては確かに「犯罪」である

 

社会通念上許すべきではなく、あるいは更なる犯罪の原因となり得るかもしれない

 

これもまさしく『正論』でしかない

 

だが、その根拠を「社会規範」や「法律」に求めるならば

 

我々はその行為をした者について、『平等』に罰するべきである

 

だが、そうはしない

 

「炎上」の長引く者もいれば、あるいは何の問題にもされず

 

それさえも「ネタ」にしてしまう場合もある

 

そして、極論を言ってしまえば

 

「お前には関係ない」ということになってしまう

 

 

それでも、多くの大衆がその当事者の「属性」によって

 

容認できるか否かを『感情的に』判断し

 

あるいは多くの者が「黙殺」ないしは

 

自分の周りに感想を述べるに留まるのに対して

 

一部の者たちはより積極的に批判し、「炎上」を煽ることになる

 

それこそが炎上の正体である

 

 

だが、ここでご理解頂きたいのは

 

筆者は何も、他者を感情的に批判する者や炎上に加担する者を

 

否定するつもりは全くない

 

たとえそれが『感情論』であろうと

 

『正論』を装った『感情論』であろうと

 

確かにそれが『正論』であろうと

 

それは、発言者にとっての紛れもない『事実』に他ならないのだ

 

「人間は、感情の動物である」

 

というのは、すでに周知の事実であり、我々の実感を伴っている

 

その厳然たる事実を前に、「感情」と「論理」とを切り離すことは不可能である

 

「論理」は「感情」を内包し、逆もまた然りである

 

だからこそ我々は、「論理」という『正論』に含まれる「感情」を

 

より深く理解しておかなければならないのではないだろうか

 

 

何度も言うが

 

『正論』であることに意味などない

 

それは「反論者」を、より効果的にねじ伏せるための役には立つだろうが

 

人間の『感情』の領域においては、何の役にも立たず

 

他者の感情までも「屈服」させる要因にはなり得ないのだ

 

そして『炎上』とは、『正論』に決して屈することのない者たちによって

 

火種を植えられ、煽られてゆく

 

一度「炎上」したものに対して、『正論』をもってその「火消し」をすることは

 

まさに『火に油を注ぐ』ことになりかねず、より「大火」をもたらす事となる

 

 

もし筆者が作者の立場になっていたならば――

 

いわゆる『100日目』の漫画のあとに「○○まであと100日」と

 

あたかも「コンテンツの継続」を想起させるような

 

「カウントダウン」を継続させて

 

その間に読者に様々な「予想」、「憶測」をもたらせ

 

「続編あるんじゃね?」

「今度は『ねずみくん』が主人公、あるいは『ねずみくん視点』」

「『書籍化』かも…?」

 

などと考えさせておいて、『100日後』にようやく書籍化の「告知」をするだろう

 

だが、市場興味の移り変わりの激しい現代において

 

果たして、そうした経済的手法が効果的なのかは不明である

 

あるいは『100日後』には、『100日後に死ぬワニ』というコンテンツすら忘れ去られ

 

「ワニくん」は完全な「死」を迎えているかもしれない