ひよこねこ

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就活における『学歴』の意味とは?

 

もう間もなく、三月からいよいよ来年度卒の大学生の『就活』が本格的にはじまる

 

(とはいえ「インターンシップ」や一部の「説明会」など

 

あるいは「エントリーシートの書き方講座」など、『準備』はすでに始まっている)

 

着慣れないスーツを身にまとい、希望と不安を抱えながら集団で歩く学生たちの姿は

 

ある種の「風物詩」を思わせる

 

「どこの企業が『ブラック』」だとか「志望動機はこんな風に言えばいい」など

 

学生たちの間で、真偽の入り混じった情報が飛び交う中

 

やはり皆の思うところは同じで

 

「とにかく『内定』を確保したい」「良い企業に就職したい」など

 

将来への不安をできるだけ早く、より確実に払拭したいというのが本音だろう

 

 

そのために、学生たちは普段あまり考えることのない自らの『長所』に目を向け

 

「謙虚であるべき」という日本の風土とは正反対にも思われる

 

『自己PR』を作成し、自分という『人財』を企業に売り込むことに必死になる

 

そこで、学生時代の様々な経験や実績を「企業向け」にまとめ上げ

 

「サークル活動」や「アルバイト」から

 

何かしら『武器』として語れる『経験談』はないかと模索する

 

あるいは『人柄』など、大学時代のみならず

 

それまでの人生で培ってきた自己の「性質」や「性格」を

 

何とかして『自己PR』の糸口にならないかと、やや強引に「パッケージ化」する

 

 

だがそうして、無理やり作り上げた『自己PR』や『志望動機』を読み返してみると

 

「本当にこんなものでいいのか」「あまりに凡庸過ぎやしないか」と

 

『他者との比較』において、ますます不安になり

 

そこで『一般性』を持ち、ある種の『絶対性』を持つ「武器」として思いつくのが

 

『資格』と『学歴』である

 

 

思えば、これほどまでに簡潔で説明がしやすく、誰から見ても明らかな「武器」はない

 

けれど、『学歴』については無論今さら変えることはできないし

 

『資格』にしたって、優位性のあるものを取得しようとするには

 

やはり、それなりの「勉強」を必要とされるし

 

ただでさえ就活やゼミで忙しい中、今さら短期間でそれを得ることは難しい

 

 

そこで学生たちは「もっと『資格』を取っておけば良かった」と学生時代を振り返り

 

大学受験以来、実に三年ぶりに『学歴』というものについて考える

 

それについて「今さら遅い」とか「もっと頑張らなかったお前が悪い」

 

なんて言うつもりはない

 

人間誰だって「喉元過ぎれば熱さを忘れる」どころか

 

「喉元に来なければ熱さを知らない」

 

のであって、まだ訪れていない『将来』に向かって

 

何かを実行するというのは、そう簡単にできることではない

 

だからこそ、「喉元を過ぎた熱さを知る」親の言葉はただ煩いだけで

 

「もっと勉強しなさい」というある種の『正論』は

 

かつての自分の耳には入りつつも、心までは響かなかった

 

(『正論の扱い方』については以下の記事を参照)

「お客様から給料を頂いている」は間違い? - ひよこねこ

 

 

だから僕はここで『正論』を煩く述べるつもりも

 

ましてや就活について、偉そうな『講釈』を語るつもりもない

 

ただ、ふと疑問に思った『学歴』というものの有用性について

 

この記事では、僕なりの考えを書いてみようと思う

 

 

『学歴』は必要なのか?

 

その問いかけに対しては、もう数十年も前から論議されてきた

 

「必要ない」という者もいれば、「いや、間違いなく必要」という者もいる

 

だが、いまだに日本が『学歴社会』であることは厳然たる事実であり

 

いわゆる「大企業」における採用は、基本的に『大卒』を前提とし

 

『高学歴者』を多く採用する傾向にある

 

(と思われている、僕は大企業の人事担当ではないので真実は分からないが)

 

そういった意味で、就活において『学歴』というのは

 

やはり一定の「価値」を持つものと考えることができるだろう

 

ならば問いを変えよう

 

どうして企業は採用において、『学歴』を重視するのか?

 

『学歴』とはつまり

 

「ある教育機関の入学試験を突破し、数々の中間試験を経て、卒業できた者」

 

に与えられる称号である

 

そういった意味では、基本的に『試験』に担保される『資格』と

 

あまり変わらない種類のものに思える

 

だが、数々の資格がある一分野についての知識を問い

 

その分野においての一定のスキルを認めるだけのものであるのに対して

 

『学歴』というのは、多岐にわたる「五科目」を入口にして争われる

 

「総合スキル」なのだ

 

もちろん分野の幅も広く、大学になるとよりその分野は狭くなる傾向にあるが

 

それでも「学問」というものは深く、当然その全てを網羅できるはずもなく

 

「総合スキル」といいつつも、その知識はいわば

 

「学問の上澄み」をすくっただけの半端なものに過ぎない

 

ならば、そんな半端な知識が果たして社会に出て本当に役に立つのだろうか?

 

確かにその分野について「全くの無知」であるより、いくらかマシなのかもしれない

 

けれど、多くの学生たちが自分の学部とはおよそ無関係な

 

「営業職」に進むことから鑑みても、やはりその答えは明らかだ

 

 

ここで、はっきりと断っておくが

 

僕は別に『学歴』というものを否定的に見るつもりはないし

 

それが全くの無意味だとは思わない

 

なぜかと言うと、それは僕がこの記事で語る

 

『学歴』の本当の意味とは何か?

 

についての、二つの観点からの僕なりの想像と考えからお分かり頂けると思う

 

 

まず一つ目についてだが

 

それは『学歴』というものが、個々の「努力」を適切に反映したものである

 

という事実だ

 

いわゆる『難関大学』の試験に受かるためには

 

「勉強」という名の努力を欠かすことはできない

 

日々の積み重ねにより知識を習得し、反復によってそれを定着させる

 

それは『努力』以外の何物でもない

 

中には「自分は元々できが悪い」などと

 

自らの地頭の悪さを引き合いに出し、「才能」を言い訳にする者もいる

 

確かに、一度聞いただけですんなり理解できる者もいれば、そうではない者もいるし

 

「理解力」や「記憶力」という能力も、勉強において無関係とは言い切れない

 

だが、「スポーツ」や「芸術」といった分野に比べると

 

才能の介在する余地はやや少なく(もちろん、かつての発明家や発見者は別である)

 

だからこそ、義務教育から続く教科の延長として

 

狭義な意味での「勉強」というものが、より「公平性」を持ち

 

個々の能力を量る一般的な「指標」として

 

努力によってある程度はどうにかなるものとして

 

「テスト」に用いられ、その点数が「試験」の合否を判定する基準に使われているのだ

 

 

だから『学歴』というのはつまり

 

「どれだけ努力し」、また「どれだけ努力できる人間か」

 

という、個人の「性質」を表すものであり

 

あるいはそこに学部などの分野は関係なく

 

「総合スキル」とは言ったものの

 

それは『資格』のように「結果としての技術」を求めるものではなく

 

いわば、そこに至るまでの「過程」を評価したものなのだ

 

 

日本の大学における頂点として「東京大学」があり

 

「東大生」と聞くと、畏敬の念を持ちながらも

 

そんな彼らの不祥事や、将来性についての疑問が度々ニュースになったりもする

 

「東大生のくせに」とか「東大まで行ってその程度か」などと

 

やや批判的に扱われることも少なくはないが

 

それらは、一つの象徴的アイコンとして「東大」をブランド化するからであって

 

個々の性質とは無関係であり

 

「学歴」もまた個人の持つ多様な性質の中の「ほんの一つ」に過ぎないのかもしれない

 

だからこそ、我々は「東大生である」という『結果』についてのみ批評するのではなく

 

彼らのそこに至るまでの努力の「過程」については

 

少なくとも純粋に評価すべきなのではないだろうか

 

 

そして、それは東大のみならず、他の大学’(それが難関大学かに関わらず)においても

 

その入学試験を突破するに要した労力については認めるべきで

 

よく『大学生』と聞くと、「飲み会」「合コン」「サークル」などに終始し

 

「遊んでばかりいる」みたいな印象を持つ方も多く

 

中には、「酒に酔わして女性をレイプした」などというニュースも聞き

 

もちろんそれについては、批評するまでもなく論外であるが

 

少なくとも、彼らは一年に数度のテストのためにそれなりの努力をし

 

その大学に入るために(あるいは滑り止めだったのかもしれないが)

 

センター試験と大学入試を突破してきたのだ

 

「ウェーイ!」と居酒屋で盛り上がり、やたらと大声で楽しそうに叫び笑う

 

彼らからは想像がつかないかもしれないが

 

そんな彼らも「センター試験」の緊張のためにノイローゼ気味になったり

 

「模試」の結果に一喜一憂し、あるいは将来の不安から涙を流した者だっているはずだ

 

だからこそ、そんな彼らの人生における「暫定的な評価」として

 

その者全てを表すものではないにせよ

 

『学歴』というものが、企業の選考の一つの基準となるのではないだろうか

 

 

それと、もう一つ

 

これについては、僕がふと思っただけの事であり

 

あるいは事実とは全く異なる、いわばただの「妄想」かもしれないが

 

あくまで話半分に、「こんな観点もあるのか」と聞き流してもらいたい

 

「『学歴』がなぜ企業の採用について意味を持つのか」について

 

企業側からの目線でこう考えてみるとする、それは

 

企業が学歴を重視するのは、そこに支払われた『資金』を必要とするからだ

 

というものだ

 

(何度も言うが、これは事実とは異なるかもしれない、という事を断っておく)

 

技術の進歩には、日々の「研究」が不可欠であり、そのためには莫大な資金がかかる

 

ではそれを誰が出すのか?

 

もちろん、企業単位で「研究費」を捻出し、日々研究に勤しむ「部署」もあるだろう

 

だがそれはいわば即物的

 

自社の利益に貢献する技術に対する研究というのが前提であって

 

たとえば「量子力学」や「宇宙論」の研究など

 

一見すると、あまり利益には結びつかないと思われる

 

あるいは、いずれ役に立つにしても遠い未来のことに思われる研究に

 

一企業が莫大な資金を出すのは、あまり現実的ではない

 

では、そうした研究は不要かといえば、もちろんそんなことはなく

 

それは言わば、人類全体の繁栄や認識に繋がる重要なものだ

 

そうした即利益に結びつかない研究をしているのが

 

国の研究機関であったり、『大学』であったりする

 

前者については、その運用費は国税で賄われたり

 

一部の企業からの援助によって賄われている

 

後者についても、国からの援助はあるだろうが

 

もちろんそれだけで成り立つはずもなく

 

その資金の一部となっているのが、学生の「学費」であり

 

同時にその学生たちの将来の実績に対する「前受金」なのだ

 

だとするならば、大学における「高い学費」というのはあるいは

 

人類の『叡智』に対する投資

 

と換言することができるのではないだろうか

 

だからこそ、『学歴』というのはいわば「投資者リスト」のようなものであり

 

もし仮に、企業が「大卒」を選考基準から完全に外したとなると

 

やはり大学に進学する者は少なくなり、ひいては大学の収入が減り

 

「高学歴」を評価の対象から無くしたとすると

 

より高度な学問を志す者が減少する

 

そのどちらについても、「人」「物」「金」において

 

人類の叡智における重大な損失

 

になりかねない

 

だからこそ、企業は「大卒者」や「高学歴者」を積極的に採用することで

 

いわば間接的に、大学に「研究費」を援助しているのではないだろうか

 

 

上記にあげたものは、筆者の妄想であるかもしれない

 

だが、大学の学費が高いのは言うまでもない事実である

 

そして、その高額な費用は

 

学生個人やその親がどう考えたところで、増減するものではない

 

ならば、今大学に在籍している学生(就活生を含めて)

 

あるいは、これから大学に進学する高校生たちは

 

どうせなら、自分の支払う「人類への投資金」に

 

少しくらい自身への見返りを求める権利があり

 

それは『学歴』という、ただ一つの称号だけではとても割に合わない

 

だからこそ、大学という教育機関

 

あなたが何を学び、何を得るのかがより大切なのだ

 

大学には、充実した教育設備が整っている

 

普段あまり行くことのない、大学図書館には無数の蔵書があり

 

「単位が取りやすいかどうか」で判断される教授の授業は

 

社会人になってから「セミナー」という形で受講するとそれなりの金を取られる

 

それに「教授」というのは、英訳するとその名の通り

 

その分野における「プロフェッショナル」なのだ

 

それらをどう使い、より「投資の成果」を上げるか

 

あるいは、その投資金をドブに捨てるかは

 

あなたの日々の「学び」に掛かっている