ひよこねこ

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知識の『総量』は等しい

 

私事で大変恐縮なのだが…

 

(そもそもブログというのは『私事』を書き連ねるものである)

 

僕は今、とある『資格』の勉強をしている

 

『勉強』を始めたのは2018年の11月

 

それから現在に至るまで、およそ1年と数か月

 

仕事をしながらなので、『毎日』とまではいかないが

 

1日3時間程度、勉強を継続していることになる

 

学生時代『勉強嫌い』だった僕にとって、これはあり得ないことだ

 

 

おととしの11月、「何か資格の勉強でもするか」とぼんやりと思い立ち

 

人生で初めて『資格』というものに興味を持ち、調べてみることにした

 

(僕の持っている資格といえば『剣道二段』と『書道五段』くらいのものだ)

 

調べてみて分かった(というか、何となく分かっていた)ことだが

 

世の中には、実に多種多様な『資格』や『検定』がある

 

誰もが一度は耳にしたことのあるメジャーなものから

 

聞いたこともないマイナーなものまで

 

『難易度』についても、まさにピンキリで

 

仕事に役に立つものから、どちらかというと『趣味』の範囲に含まれそうなものまで

 

即座に『年収アップ』に繋がるものから

 

その『肩書』を持っているだけではそれほど効果はなく

 

別のスキルと掛け合わせることで初めて意味を持つものまで

 

色んな資格があることを知った

 

 

そして、その膨大に存在する資格の中から僕が選んだのは

 

公認会計士』だった

 

 

皆さんは『公認会計士』という資格、あるいはその同名の職業をご存じだろうか?

 

『弁護士』『医者』と並び称される(言わずと知れた)

 

『日本三大難関資格』の一つである

 

だが僕は資格について調べてみるまで、それを知らなかった

 

公認会計士』と言葉自体は聞いたことはあったけれど

 

その資格がそれほどまでに難しいものとは、恥ずかしながら全く知らなかった

 

『会計』と名前がつく以上

 

「お金」や「商取引」に関係する資格であることくらいは想像できたが

 

経理の仕事をする上で、持っていればそれなりに『箔がつく』」

 

程度のものくらいに考えていた

 

だからこそ、『資格難易度ランキング』なんかで

 

トップクラスにランクインしているのを見て、少なからず驚いた

 

そして興味本位でクリックしてみた

 

そこには「会計資格の『最高峰』」と書かれていた

 

それで僕はより一層、興味を引かれた

 

というより、その響きは僕のツボに『ドンピシャ』だった

 

(昔から、漫画の『最強キャラ』や『チートキャラ』が好きだった)

 

そして僕はこう思った

 

それだけ難しい資格なら、きっと試験問題も『理解不能』なものだろう

 

それならば、どれだけ『理解不能』なのか見てみたい

 

それは「『東大の入試問題』を解けるはずもないのに、一度は見てみたい」

 

という感情に似ている

 

そして僕は早速、『公認会計士試験・短答式』

 

(一次試験と二次試験があり、一次は短答式で二次は論文式である)

 

の『過去問集』というものを本屋で取り寄せてみた

 

 

もちろん解けるはずもなく、問題文の『用語』の意味さえ解らず

 

何を訊かれているのかさえ意味不明だった

 

それでも少しばかりは、「こういう意味なんじゃないか?」と推測できるものもあって

 

勘とこれまでの人生で得た、わずかばかりの『会計的知識』を使って

 

とりあえず、ひと通り解いてみた

 

採点するまでもなく、もちろんほとんどが不正解

 

(いわゆる『選択問題』なので、デタラメに解答しても確率的に何問かは正解する)

 

そして、せめて『用語』の意味だけでも理解したいと思い

 

試験科目の一つである『企業法』のテキストをまた本屋で注文してそれを読み

 

続いて『監査論』のテキストを注文して…

 

と、そうしている内にすっかり『ドハマり』してしまい

 

今では家の本棚の一角を、会計士試験のテキストに占領されてしまっている

 

 

『簿記』という言葉の意味さえ知らず

 

(電卓の使い方を学ぶものだと思っていた

 

使ったことのないボタンがあるでしょ?それの正しい使い方について、とか)

 

『借方、貸方』なんて聞いたこともなかった僕が

 

『簿記三級』の勉強から始め、『二級』『一級』とステップアップし

 

今では『非支配株主に帰属する当期純損益』について考えている

 

 

新しい分野について学ぶと、それこそ世界が広がったみたいに

 

今までは目に留まることのなかった様々な情報が

 

まるで初めて姿形を得たみたいに、次々と目から、耳から流れ込んでくる

 

仕事で意味も分からずやっていたルーチンワーク

 

『取引』として、どう『仕訳』されるのかについて考え

 

勤め先の『売上』や『利益』がどのように認識されるのかについて考察し

 

『掛売』という言葉を聞いただけで、「『売掛金』として計上するのか」と楽しくなる

 

僕の目と耳は、今やすっかり『会計学』に浸食されている

 

 

とはいえ、未だ合格には至っておらず、まだまだその道は険しく遠いものだ

 

それでも毎日新たな知識が増え、これまでとは違った視点で物事が見れることが

 

ただただ、純粋に楽しい

 

なぜもっと早く『会計学』というものに出会わなかったのか少しばかり後悔しつつ

 

かといって学生時代に出会っていたとしても

 

やはり僕は今ほど興味を持つことはなかっただろう

 

『勉強嫌い』な僕が、なぜ誰に強制されるわけでもなく

 

嫌いなはずの『勉強』を継続できているのかというと

 

それはまさしく、『強制されない』環境にあるからだと思う

 

たとえ僕が明日から、『公認会計士』の勉強をやめたとして

 

誰に叱られるわけでもなく、僕自身がそれほど困るわけでもない

 

だからこそあくまで『趣味』として、『勉強』というより純粋な『学び』として

 

『自学』を維持できているのだと思う

 

 

さて、自分語りはこのくらいにしておいて

 

そもそも『公認会計士』はなぜそれほどまでに『難しい資格』と言われているのか

 

それについては主に『三つの要因』が考えられる

 

そして、それについて考えることで

 

我々が日々『勉強』というものについて抱いている認識と

 

『勉強以外』、つまり『趣味』や『娯楽』について抱いている認識

 

それらが実は同種のものでありながら、視点が少し違うだけで

 

本当は全く同じものだということについて

 

今回の記事では述べさせていただこうと思う

 

 

まず、『三つの要因』についてだが

・試験範囲が多様な内容に及び、範囲が膨大であること

・受験生が少なく、『テキスト』と呼べるものが市場に数少ないこと

・『会計基準』や『法律』に準拠し、それらは毎年少しずつ変化するものであること

 

それらは『公認会計士試験』が難しいとされる要因でありながら

 

同時に『独学不可能』と言われる要因でもある

 

かくいう僕は、『不可能』と言われる『独学』で試験に臨もうと思っている者だが

 

それについても、やはり僕の「漫画的に好きな展開」に影響を受けている

 

「不可能だからこそ、達成したらスゴイ」という単純な思考で

 

「直接手を出さず、『覇気』だけで相手を倒す」みたいな感じだ

 

 

また少し話が逸れつつあるが…

 

つまりは「難易度の高い試験」というのには、やはりそれなりの理由があるのだ

 

だが、ここでちょっと待ってほしい

 

 

以上に挙げた、『難関資格』である『公認会計士試験』が難しい要因についてだが

 

一般的に『勉強』と呼ばれる分野においては

 

他のジャンル及び科目においても確かにそうだろうが

 

あるいは『趣味』や『娯楽』についても、同じことが言えるのではないだろうか

 

僕は『難関資格』に挑むにあたって、ふとそんな事を考えた

 

 

例えば、一般に『娯楽』や『趣味』換言すれば『楽しいもの』とされる

 

『ファッション』について考えてみると

 

まさにそれらは『流行』に左右され、しかも毎年変化する

 

「今年の流行」だけを完全に熟知し、現時点で『最先端』のアイテムを揃えたところで

 

それと全く同じ『コーディネート』を、十年続けていたとしたら

 

その人は「お洒落な人」と言われるだろうか?

 

あるいは「自分のスタイルを貫き通す」という意味では良いのかもしれない

 

『ファッション』の根本とは、そもそも「好きなものを身に着ける」という事である

 

それでもやはり、一つの流行を知っただけで常に「流行の最先端」に居続けられるほど

 

『ファッション』というのは、底の浅いものではない

 

会計基準』や『法律』というのは、毎年少しずつ変化するもの、と言われるが

 

『ファッション』や『流行』こそ、まさに「毎年変わるもの」ではないだろうか

 

それに『流行』については、「毎年少しずつ」でさえなく「大きく変化するもの」だ

 

四、五年前の『最先端』は、現代では「流行遅れの『ダサい』ファッション」となる

 

会計基準』において

 

例えば『減価償却の方法』について容認規定が変化することはあれど

 

そもそも「『減価償却』を認めない」なんて風に変化するとは考えらない

 

だが、ファッションにおいてはそれがあり得る

 

つまり、「『会計学』は日々変化する『会計基準』を覚えなきゃいけないから大変」

 

と言うけれど、それを言えば『ファッション』だって

 

「毎年ガラリと変わる、気まぐれな『流行』に合わせるのは大変」と

 

毎年同じ服をローテーションで着ている僕からすれば

 

会計基準』や『税法』より「流動性があって難しいもの」に思えてくる

 

 

そして、あらゆる分野において

 

それが『勉強』つまり『学問』と呼ばれる、小難しそうなものから

 

『趣味』や『娯楽』と呼ばれる、一見して簡単そうに思えるものまで

 

その「『知識の総量』は等しい」のではないかと思う

 

 

では、『勉強』と『娯楽』の何が違うのか?

 

それについては、あくまで主観的な「楽しいかどうか」の違いでしかない

 

あるいは、『勉強』というのは「何度も同じこと反復しなければならないもの」

 

だとする

 

けれど僕らが一般的に考える『娯楽』である『ゲーム』だって

 

『レベル上げ』には「何度も同じ敵を倒す」が必要があり

 

『技術』を身に着けるには、何度も同じことを繰り返す必要に迫られる

 

新しいゲームを始めた当初は、右も左も分からずに

 

何となく『チュートリアル』をこなし

 

やがて『ボス』に出くわすことで

 

そのゲームの仕組みを知り

 

『コマンド』や『パラメーター』の真の意味を理解し

 

ようやくその「強敵」を倒すことで、ある種の喜びを見出す

 

それは『勉強』と何ら変わらない

 

 

では『勉強』と『娯楽』の何が違うのか?

 

「役に立つかどうか」と答える人もいるだろう

 

だが、「何について役に立つのか?」という定義付けをした時に

 

あるいは『社会的に』とか『将来のために』とか

 

曖昧な返答しか望むことはできない

 

 

だからこそ、「何かについて『学ぶ』」ということについて

 

僕はもう少し寛容に、より広い範囲で考えてみて良いのではないかと思う

 

例えば、ギャンブルである『麻雀』や『パチンコ』にだって

 

全くやらない者にとっては、無意味な知識であるだろうが

 

そこにはそれなりに奥深い『教養』が詰まっているものである

 

それを「無意味なもの」と切り捨てるのは容易だが

 

それでは『教養』におけるある分野において、全くの『無知』になってしまう

 

 

「人生というのは、所詮死ぬまでの『暇潰し』である」

 

だからこそ、我々はより多くの

 

『無価値』とさえ思われる『娯楽』の一つに過ぎない分野にこそ

 

「面白い」と興味を持ち、そこから何かを学び

 

あるいは『哲学』にさえ通じることができるのではないだろうか

 

その方が人生はきっと楽しく、豊かなものになるだろう

 

 

「どんな髭剃りにも哲学はある」と『サマセット・モーム』は書いている

 

村上春樹』が自身の小説の中でも引用した、有名な一節だ

 

僕はその言葉が大好きだし、人生における重要な『真理』だと思っている

 

どんな『趣味』や『娯楽』にも哲学や、学ぶべきところがあり

 

一般に高尚と思われる『勉強』と呼ばれる分野と比較しても

 

それらは全く遜色のないものだ

 

だからこそ「知識の『総量』は、いかなる分野においても等しく尊いものだ」

 

と僕は考える

 

 

『AKB48』はなぜ売れたのか?

 

マネーの虎』という番組をご存じだろうか?

 

「2001年10月から2004年3月まで日本テレビで放送されたリアリティ番組」であり

(wikipedia参照)

 

番組内容としては、自らの立ち上げる事業への投資を募るため

 

毎回一人の『起業家』(番組内では『志願者』と呼ばれる)が

 

『投資家』である数人の社長(番組内では『虎たち』と呼ばれる)の前でプレゼンをし

 

『虎たち』のお眼鏡に適った者だけが出資を得る、というもので

 

当然、すべての『志願者』が出資を得られるわけではなく

 

経験豊富な虎たちから、事業計画の甘さを痛烈に指摘され

 

むしろ、ほとんどの志願者が出資を得られずに惨敗する

 

番組自体を観たことはなくとも

 

「ノーマネーでフィニッシュです」という台詞だけは知っているという方もいるだろう

 

 

虎たちの大半がおそらく『成り上がり社長』で

 

眼前のテーブルには、生々しい『札束』が積み上げられ

 

「マネー成立」と相成れば、志願者に直接『現ナマ』が手渡されるという演出は

 

『バブル』の名残を感じさせつつ、次々と怒声の飛ぶ現場はまさに

 

古き良き(良いかはわからないが)時代の『リアル』であった

 

 

数々の『名物社長』の名言や迷言が生まれる中

 

志願者側もまた、『名キャラクター』が数多く登場し

 

持ち込まれた『ビジネスモデル』の中には

 

素人目に見て「上手くいきそう」と思えるものがあったり

 

「いや無理でしょ」と明らかにそう思えるものもあった

 

 

そんな中、当時は特に印象に残った『志願者』ではなかったのだけれど

 

最近とあるきっかけで、その番組を思い出す機会があり

 

そして、放送から二十年近く経った今だからこそ

 

類似したビジネスモデルが『大成功』を収めているのを知っているからこそ

 

気になった『志願者』がいた

 

 

その志願者は「アイドルをプロデュースしたい」と事業計画を持ち込んできた

 

果たして当時の『アイドル』というものが、どういった定義によるものなのかは

 

時代の経過した今となってはよく分からないけれど

 

彼の考えとしても、その当時にはない「全く新しいアイドル」というものであり

 

より具体的に言うならば、「テレビや大型コンサート会場だけで活躍するのではなく、

 

自分たちの『小屋』を持ち、そこに客を呼んで定期的にライブを行う」というもので

 

(古い記憶なので情報の正確性にはやや欠けるが、大まかな内容としてはそんな感じ)

 

番組を観ていた当時の僕としては

 

「まあ、そういうアイドルもありかな」という具合だったが

 

今となっては、我々はそういったコンセプトのアイドルこそ

 

むしろメジャーなものとして理解し知っている

 

つまり「会いに行けるアイドル」、『AKB48』だ

 

 

ここでようやく、前回の記事に話が繋がることになる

 

(前回の記事↓)

hiyokoneko13.hatenablog.com

 

AKB48』という、知る人ぞ知るローカルのアイドルグループが

 

『国民的アイドルグループ』にまで成長した理由は果たして何なのか?

 

今回はいよいよ、それについての僕なりの結論を述べさせていただこうと思う

 

 

さて、その前にくだんの志願者について

 

「会いに行けるアイドル」という言葉がまだこの世に生まれる前に

 

似たようなビジネスモデルを思いつき

 

それを実践しようと計画を持ち込んできた志願者について

 

果たしてその結果はどうだったのだろう?

 

 

「ノーマネーでフィニッシュです」

 

志願者側なのか虎たち側なのか(おそらくは中立)立場の不明な

 

唯一の芸能人枠である『吉田栄作』さんは、番組の最後でそう言った(言わなかった)

 

つまりは『マネー不成立』である

 

経緯としては、志願者はすでに自ら

 

『アイドル』となるべくプロデュースする女性たちを集めてきており

 

彼女たちにその場でパフォーマンスをさせるのだが

 

そのパフォーマンスが到底「客から金を取れるレベル」には達しておらず

 

虎たちの怒りを買ってしまった

 

虎たちの言い分を要約すると「未完成なものを見せられて不快だ」ということで

 

さきほど『吉田栄作』が番組の決め台詞を(言わなかった)と括弧書きしたのは

 

何も彼だけはそのコンセプトを理解し企画に賛成していたから、というわけではなく

 

むしろ彼は「未完成の状態でパフォーマンスさせられた」女性たちを不憫に思い

 

自ら退室を申し出たのだ(確かそうだったと思う)

 

 

つまり、「会いに行けるアイドル」というコンセプト自体は悪いものではなく

 

現に『美空ひばり』(もはや偉人と呼ぶべき方なので、あえて敬称は付けない)の

 

長男であり、虎たちの一人である『加藤和也』さんは

 

「母が晩年に考えていたことと同じ」と評していた

 

だがやはり、彼の御母堂がそうであったように

 

ショービジネスとは『完成品』を見せてこそ当たり前という

 

大半の虎たち及び『吉田栄作』からの猛烈な批判にさらされ

 

「ノーマネーでフィニッシュ」という結果となってしまった

 

 

この結果をふまえて、『AKB48』という成功例を知っている

 

現代の皆さんはどう考えるだろうか?

 

「虎たちに先見の明がなかっただけ」と

 

散々エラそうなことを言っておきながら

 

自らもチャンスをものにできなかった虎たちを馬鹿にするだろうか

 

あるいは「時代が追いついていなかっただけ」と

 

志願者が、時代を先取りし過ぎてしまったことを不憫に思うだろうか

 

僕としては、そのどちらの考えとも違う

 

(それもまた僕が現代に生きる者だからこそ、言えることなのかもしれないが)

 

 

志願者の考えるアイドル、そのコンセプトにはAKB48と決定的に違う部分

 

あるいは根本的に欠けている要素があるのだ

 

そして、それこそがAKB48が『国民的アイドルグループ』へと成り上がる

 

そのための『売り方』であり、重大な要素なのだ

 

 

もし志願者が『秋元康』だったならば

 

あるいはそれに代わる人物になりたかったのなら

 

彼はプレゼンの中で、こう言うべきだった

 

「彼女たちは未完成です

 

だからこそファンに応援されてこそ『完成品』となるのです」と

 

つまりは、『アイドル』という完成品を商品として売り出すのではなく

 

「未完成が完成へと成る」その過程をビジネスにするのだと

 

そこに客を集め、『応援』という形で商売をするのだと

 

それこそが志願者のコンセプトにはなく、AKB48だけが持つ『成功の秘訣』なのだ

 

そんな風に言っておけば、志願者は無事に「マネー成立」となり

 

吉田栄作』は退室せずに済んだのかもしれない

 

(あるいはそれでもダメだったかもしれない)

 

 

つまりは、最初から「万人受けする完成品」を売るのではなく

 

「知る人ぞ知る未完成品」をあえて売り込み

 

それを『育てる喜び』にこそ金を払わせる

 

それこそが、AKB48というビジネスモデルが成功した最大の要因であり

 

『秋元先生』の仕掛けた、壮大なプロジェクトであり

 

真の意味での『AKB商法』なのではないかと思う

 

 

そしてその手法、『売り方』は

 

あるいは『日本』でのみ有効な方法であるのかもしれない

 

海外での『アイドル』の定義は、これまたよく分からないが

 

韓国のいわゆる『アイドル』なんかを見て見ると

 

そのパフォーマンス、ダンスや歌などはそれなりに一流のもので

 

いわば『アーティスト』に「見た目の美しさ」や「愛らしさ」を付加したものが

 

『アイドル』と呼ばれているように思う

 

それは紛れもない『完成品』であり、世界に通用する『アーティスト性』である

 

だが日本におけるアイドルとは、ややその常識とは異なる

 

 

いかに歌やダンスが「下手っぴ」であろうと

 

客自らが『推したい』と思えば、彼女たちはれっきとしたアイドルであり

 

純然たる『偶像』となり得る

 

それは、あるいは日本独自の風習であり、芸能における風土であるのかもしれない

 

 

誰も知らないからこそ自分が応援しなければならない、という使命感に駆られ

 

その使命感は、劇場に「足しげく通う」という行動を伴わせ

 

「CDを買って、握手会に参加する」という義務感をもたらせ

 

そんな『ファンたちの努力』が結果として(本人たちの望む望まないに関わらず)

 

AKB48というグループを、誰もが知る『国民的アイドル』へとのし上げたのだ

 

 

『インディーズバンド』が一部の熱狂的ファンを持ち

 

『メジャー進出』を快く思わない者が一部にいるように

 

「自分たちだけが、その良さを知っている」という事実は

 

どんな『流行の最先端』より優越性を持ち

 

ファン本人たちにとっては、愛着と執着をもたらせるものである

 

 

自分の推すアイドルは、世間的に見て『絶世の美女』ではないかもしれない

 

ファンの数は少なく、あるいは一部の心無い者たちからは

 

『可愛くない』と不名誉な評価を受けているかもしれない

 

だからこそ「彼女を応援してあげられるのは自分しかいない」という

 

使命感にも似た義務感こそが、本人にとっては金を払うに値する『価値』となり得る

 

そんな『アイドル』のみならず、『ファン』をも盛大に巻き込んだコンセプトこそ

 

AKB48の成功の鍵であり、真の意味での『AKB商法』なのではないだろうか

 

 

多くの『発明』がそうであるように、発明や発見というのは

 

後の時代の者にとっては「何だそれだけのことか」と思われるものばかりである

 

だが、自らを信じ続けたものだけが『栄光』を手にするように

 

ちょっとした『気づき』に執着できる者こそが「新たなる時代の実現者」となる

 

あるいはそれは「自ら発見した」アイドルが成長し

 

「時代を担うアイコン」となる姿を見守る『ファン』たちに

 

よく似ているのかもしれない

 

 

真の『AKB商法』とは何か?

 

「『AKB48』を知っているだろうか?」

 

 

書き出しとして、あまりに陳腐な問いかけである

 

今や、というかもうずっと前から『国民的アイドルグループ』であったが

 

いわゆる『坂道グループ』のが現れたことで、そちらに人気を奪われつつあり

 

(それももはや『近代史』の範囲である)

 

近年ではむしろ、そのグループ名は知っているし

 

有名な『元メンバー』の顔や名前は聞いたことあるけれど

 

彼女たちの最新シングルの名前を言える方は少ないだろう

 

 

そんな、今となってはやや低迷にある

 

とっくにブームの去ったとさえ思われる『AKB48』を

 

2020年になってわざわざ取り上げることに意味なんてあるのだろうか?

 

 

いや、意味はある

 

流行の去った今だからこそ(別に彼女たちを『オワコン』だと言いたいのではない)

 

より冷静に、客観的に、『AKB現象』とさえ呼ばれる

 

『48グループ』の隆盛について考えることができ

 

彼女たちの『売れ方』を分析することは、芸能界での『成り上がり方』のみならず

 

より大きな枠組みでの、『ビジネスの成功法』を学ぶことにつながると僕は思う

 

 

『AKB商法』という言葉をご存知だろうか?

 

今では、あらゆるアーティストたちがごく当たり前のように実践していることであるが

 

(もちろん、全てのアーティストが実践しているわけではない)

 

一時期、そのCD販売の方法が批判的にそう揶揄されたことがある

 

いわく、「AKBはCDを売っただけで、『音楽』を売ったわけではない」と

 

音楽業界から強いバッシングを受けたこともある

 

 

ではその一般的な意味での『AKB商法』こそ、彼女たちが売れた理由なのかといえば

 

僕はそうではないと思う

 

なぜなら、その手法はあくまで「CDの売るための方法」であり

 

もちろんそれによって、一時期のオリコンチャートの上位を48グループが独占し

 

その結果、彼女たちの知名度が飛躍的に上がり

 

彼女たちの曲を我々が耳にする機会が増えたこと自体は否めないが

 

どんなCDの売り方をしようと

 

根本的にそれを買ってくれる『ファン』の存在がなければ、そもそも無意味である

 

つまり、CDの販売方法以前に、彼女たちにはCDを買ってくれる存在

 

応援してくれる、あるいは応援したいと思ってくれるファンがいたということだ

 

では、彼女たちはどうやって「その大金をつぎ込んでも惜しくはない」

 

と思わせるファンを獲得するに至ったのだろう?

 

それこそが、この記事における論点であり

 

真の意味での『AKB商法』である

 

(厳密にいうと、それを仕掛けたのは彼女たち自身ではなく運営サイドなのだろうが

 

この記事ではあくまで便宜上『彼女たち』と言わせてもらう)

 

 

それについて述べさせていただく前に、やや本線から外れることになるが

 

一般的な意味での『AKB商法』、つまりCDの販売方法について少し語らせていただく

 

果たしてその販売方法は「あこぎな商売」なのだろうか?

 

CDというものの売り方として、『音楽』の売り方として間違ったものなのだろうか?

 

僕はそれについても、必ずしもそうではないと思う

 

 

近年、インターネットの発達によって『音楽』が無価値なものになりつつある

 

もちろん、芸術としての『音楽』が無価値なものだとは全く思わない

 

僕個人としても音楽は大好きだし、とあるレコード屋さんのキャッチコピーではないが

 

「音楽がない人生なんて考えらない」とまで言う自身はないけれど

 

音楽がない生活は、やはりとても淋しく虚しいものである

 

つまり芸術としての『音楽』というものは

 

今も昔も国や民族を問わず、人々の生活に欠かすことのできないものであるし

 

人が生み出す『音楽』のその価値は未来永劫変わることはないと思う

 

では何が「無価値なもの」になりつつあるのかというと

 

それは『商業的価値』においてだ

 

 

だがそれについても、やはり万人にとって『無価値』なのかというとそうではない

 

人によっては、今でも音楽に日常的にお金を払う方もいるだろうし

 

色んなCDを買うわけではないが

 

好きなアーティストの新譜は毎回買うという方もいるだろう

 

ただ、昔に比べて『音楽』というものがより簡単に

 

あるいは無償で手に入る機会が増えることで

 

(違法な方法を言っているのではなく、あくまで合法的な方法で)

 

そこにお金を掛けることが減ってきているというのも、また事実である

 

とはいえ、音楽とはもちろんその曲自体のみに『商業的価値』があるわけではなく

 

ライブや夏フェスに行くという方もいるだろうし

 

そこで好きなアーティストのグッズを買ったりする方もいるだろう

 

それもまた『音楽』というコンテンツにおける『商業的価値』の一つである

 

だが、「CDが売れなくなってきている」というのは

 

やはり無視することのできない厳然たる事実である

 

 

それも確かに考えてみれば、当然の摂理である

 

人々の需要というのは「より安く、より良いものを求める」

 

CDやレコードの音質、あるいは生演奏こそ至上であるというのはもちろんだが

 

それにしたって聴者がそれを聴き分ける耳を持たなければ

 

やはりダウンロードだろうが何だろうが変わらないわけで

 

逆に、その音質に慣れてしまえば特に気にならないのである

 

YouTubeなんかでも、ヘッドホンで聴けばそれなりの音質だし

 

それを「音楽を聴くということ」だと認識している人に

 

「CDだともっと良い音質で聴けるよ」と言ったところで

 

違いを知らない者、体験したことがない者にとっては

 

やはり「無料」の方が良いということになってしまう

 

(それに『CDを買う』というのは結構な出費である)

 

 

そうした市場の需要や時代の変化を全く無視して

 

『売り手』であるアーティストが『買い手』であるリスナーに

 

「CDを買え」と一方的に言うのはいかがなものだろう

 

もちろん言うのは自由である

 

アーティストは『売り手』である前に『作り手』であり『表現者』なのだから

 

自分たちの『作品』をより良い状態でリスナーに届けたいと思うのは当然である

 

彼ら彼女らはもちろん「良い音質」という『違い』を分かっているし

 

彼ら自身、それを聴いて育ってきたのだろう

 

 

だが彼らがそれを買わないリスナーを批判するべきではなく

 

『買い手』に注文をつけるべきではなく、また現にそうしていることと同じように

 

他の『売り手』についても文句を言うべきではない、と僕は思う

 

「CDが売れない時代」だからこそ

 

「売れるためにどうすればいいか」を考えることは

 

商業的に見ればとても大事なことであり、ごく当たり前のこととも言える

 

だからこそ彼女たちは「CDを買うことで得られる付加価値」を与えただけなのだ

 

 

さて、思った以上に脱線が長くなってしまったが、ようやく本題に戻ろうと思う

 

…だが、これから語らせていただく内容もまたそれなりに

 

脱線の内容以上に紙面を割いてしまいそうなので

 

今回の記事はここで一旦終わらせていただくことにする

 

次回こそ、いよいよ本編

 

タイトル通り、僕の考える「真の(意味での)『AKB商法』とは何か?」

 

について語らせていただこうと思う

 

簡単に次回予告のようなものをさせてもらうとすると

 

キーワードとしては『マネーの虎

 

懐かしい『ビジネス』に関連する番組を取り上げることで

 

AKB48』というビジネスモデルについて深堀していこうと思う

 

 

中途半端なところで申し訳ありませんが

 

ここまで読んでいただき、有り難うございました

『教育の難しさ』と『情報伝聞の危険性』について考えてみる

 

中田敦彦YouTube大学』をご存知だろうか?

 

オリエンタルラジオ』の『あっちゃん』こと『中田敦彦』の運営する

 

『教育系YouTubeチャンネル』である

 

 

「大学」といっても、実際に校舎や高度な教育設備があるわけではなく

 

「講師『中田敦彦』」が「ホワイトボード」を使って

 

一般公募の数名の「生徒」たちの前で授業をする、という形式の動画であり

 

(「生徒」の姿が画面に映ることはない)

 

書籍を参考にした授業は、さながら『大学の講義』のような豊富な情報量で

 

講師である『あっちゃん』の軽妙かつユーモアを交えた講義は

 

一般的な『退屈な授業』よりずっと面白く、解りやすく

 

チャンネル登録者数は100万人を突破し

 

昨今、あらゆる「芸能人」が『YouTube』という新興メディアに参戦する中

 

他に類を見ない『大人気チャンネル』となっている

 

 

さて、そんな『YouTube大学』であるが、その大人気チャンネルをめぐって

 

(大人気であるがゆえ、に)

 

様々な論争が巻き起こり、一部で『炎上』し、あるいは過去に何度か『炎上した』

 

というのをご存知だろうか?

 

 

『炎上』といっても、多くの『炎上者』(そういう言葉が存在するかは分からない)の

 

感情論気味の「尖った発言」や、一部の思想や慣習に「配慮のない発言」とは違い

 

その要因として挙げられるのは


「正確ではない情報が、あたかも真実であるかのように述べられている」という

 

やや毛色の違った(あるいは広義で見れば同じなのかもしれない)ものである

 

 

そして、この『問題』(大袈裟にその言葉を使わせていただく)を取り扱うことで

 

今回の記事は、『教育』というものの難しさや、『情報伝聞の危険性』について

 

考えてみようと思う

 

 

まず最初に、僕はこのブログにこれまで『8記事』しか投稿していない身であるが

 

そんな僕でも記事を載せる上で、不特定多数の目に触れる文章を書く上で

 

気をつけていること、あるいは自分に課している『ルール』が存在する

 

一、「なるべく正確な情報を発信すること」

二、「なるべく偏りのない意見を発信すること」

三、「時事問題はなるべく扱わないこと」

 

「三」については、今日の記事を書く時点ですでに破っていることになる

 

そして、「一」と「二」についても、自分なりに気をつけてはきたつもりだが

 

完全に守られているとは、やはり言い難いだろう

 

それでも、なぜそのようなルールを課しているのかというと

 

それは「なるべく不用意に他人を怒らせたり、傷つけたりしたくないから」だ

 

「一」については、嘘の情報が他人の不利益になることがある

「二」については、偏った意見は一方の意見を否定することになる

「三」については、問題が沈静化しない内は感情論に走りやすく

         当事者双方の意見や事実を十分に揃えることが困難である

 

以上の理由から、僕は『なるべく』そのルールを守って記事をまとめてきたつもりだ

 

 

なぜ僕がここでそんな、この記事の表題から脱線したような

 

『自分ルール』を述べたのかというと

 

それは決してこの記事の内容とは無関係ではなく、むしろ今回の論点において

 

あるいは「最重要」なものであるからだ

 

そして、僕が『自分ルール』を語る上で自己弁護的に、あるいは言い訳的に

 

『なるべく』という曖昧で漠然とした「努力目標」を多用したことにお気づきだろう

 

 

中田敦彦』さんは授業の中、あるいは動画の中で

 

特にセンシティブな内容、おもに多様な『歴史認識』のある内容を扱うとき

 

その授業の冒頭で必ず言っている

 

「正しいとか間違っているとかではなく、あくまで『知る』きっかけとなれば」

 

彼は言う

 

「自分はただ『真実』を言うだけで、それからどう考えるかは『自由』だ」と

 

その言葉に、僕は彼のその「授業」あるいは「チャンネル」自体への

 

彼自身の考えや思いが簡潔に込められているのだと考える

 

つまり「自分はある特定の偏った意見を押し付けるつもりはない」

 

「なるべく正確な情報、あるいはそれに近い情報を共有し」

 

「そこから先はそれぞれが議論し、自分なりの意見を持つことが大事なのだ」と

 

そして、そこには『教育』というものの本質が詰まっていると思う

 

 

「教育とは何か?」

 

それについて考えるのは、とても難しい

 

「教え育む」とは言葉の意味そのままだが

 

そもそも「『教える』とは何か?」「『育む』とは何か?」

 

そこに単純明快な解答が見つかるのなら、誰も子育てに悩んだりはしない

 

だからこそ『教育者』は『学習者』と共に日々成長し、育まれなくてはならない

 

そして、何かを『教える』とき、『教える側』が最も気を遣わなくてはならないのが

 

「自分の考えを押し付けすぎない」ということだ

 

それをしてしまうと『教育』ではなく、『洗脳』になってしまう

 

言葉でいうのは簡単だが、それを実践するのはとても難しい

 

何か客観的な『事実』を述べるとき、そこに主観は混じっていないだろうか?

 

仮に思想の全く介在しない教育があるとして

 

果たしてそれは『教育』と呼べるのだろうか?

 

 

教育とは、人から人へ与えられるものである以上

 

どうしたってそこには『認識』から生まれる無意識化の『思想』が含まれる

 

そしてその『思想』こそが、あるいは『学び』において重要な意味を持つこともある

 

 

例えば、「人はなぜ歴史を学ぶのか?」という問いに対して

 

「過去の過ちを繰り返さないため」という、いかにもな『正論』が存在する

 

だが、その考え自体が『思想』であり

 

だとすれば、ただ『知識』として歴史を知っていればいいのか、というと

 

それではただテストの点を稼ぐだけの空虚なものになってしまう

 

ならば、やはり『歴史的事実』に意見や認識を与えるというのは

 

『教育』にとっては不可欠なものであり

 

そこに「あくまで参考として」教育者の意見、世間一般的な意見を付随したとして

 

それは「不要なもの」として割り切れるのだろうか?

 

あとは「『生徒』自身が考えるべきもの」として

 

果たして、自ら真剣に考え「自分なりの答え」を見出せる者がどれくらいいるだろう

 

 

だからこそ、『教育』というのは難しく

 

そこでは『教育者』のみならず『学習者』が

 

(便宜上そういった使いわけをしているが、それらは相対性を持つ)

 

不断の努力をもって、これを成し遂げなければならないのだ

 

 

だが果たして、『中田敦彦YouTube大学』を視聴した者の一体どれだけが

 

その『不断の努力』、換言すると『普段の努力』を行うことができるだろう

 

「ある『歴史的事実』を知り、それを双方向から検証する」

 

それには多くの情報を収集する必要に迫られる

 

彼の語る『事実』が『真実』だとして、その根拠はどこにあるのか?

 

あるいは、彼の語る『事実』が『虚偽』であるとして、その根拠はどこにあるのか?

 

それを検証するには、実に多くの情報を収集し、時に様々な書物を読み漁る必要がある

 

果たして、そんな面倒くさい事を

 

彼の動画の視聴者の、一体どれだけがする事ができるだろう

 

 

人間はどうしたって『解りやすく』

 

自分の耳に『聞き馴染みの良い』情報ばかりを収集する癖がある

 

そして一旦受け入れた情報を疑うことは、そう簡単にはできない

 

なぜなら、そこには『学習した』という自負が伴うからである

 

それがYouTubeの動画であれ、それなりに時間を要した

 

あるいは自分の利害とは全く無関係なものであるなら尚更である

 

そして、そこには『情報伝聞の危険性』という、もう一つの論点も大いに関わってくる

 

 

ここで、この記事の冒頭の文章を読み返してみてほしい

 

僕としてはあくまで『前置き』として

 

今回の論点である「教育の難しさ」と「情報伝聞の危険性」を語る上で

 

導入部分として、さしたる『正確性』もなく

 

かといって『思想』や『偏見』はないつもりで書いた『つもり』だ

 

だが、仮に「中田敦彦」さんがこの記事の冒頭を読んだとして

 

あるいは彼のファン、彼のチャンネルを全て視聴している方が読んだとして

 

一体どれだけの『正確ではない情報』が含まれていることだろう

 

 

例えば、僕なりに考えてみたとして

 

まず「チャンネル登録者数100万人」という情報すら正確なものではない

 

僕が彼のチャンネルを毎日楽しみに観ていた頃

 

何かの動画で、彼が「チャンネル登録者数100万人を突破しました!」と言っていた

 

ということは、今現在その登録者数はそれ以上ということになる

 

(減っているというのは考えにくい)

 

110万人か、120万人か、あるいはすでに200万人を超えているかもしれない

 

仮に130万人とすれば、僕の述べた情報は概算では合っているとはいえ

 

彼のチャンネルを応援している方からすれば

 

「100万人なんて、とっくに超えてるよ!」ということになる

 

そして、もし仮に登録者数が200万人を超えていたならば

 

僕の述べた情報は古い情報であり、正確性を持たないものとなってしまう

 

だが僕としては、あくまで「登録者数の多いチャンネル」という情報こそ

 

肝要なものであり

 

そこに登録者数を過小に見積る意思はなかったのだ

 

だが、あるいは他の『YouTuber』のチャンネルを登録している方にとっては

 

「誰より多い」とか「誰より少ない」という、誤った情報を与えてしまったことになる

 

そして「『中田敦彦』の運営する」という情報も

 

あるいは彼自身に言わせれば正しくないのかもしれない

 

「いや、俺だけの力じゃないし」という反論も容易に予測できる

 

そして、彼のチャンネルについて『僕なり』に簡単に説明した『つもり』の文章も

 

それは完全に僕の主観であり、事実とは異なるのかもしれない

 

 

まるで「重箱の隅をつつく」ようなことであるが

 

だが当事者やそれに近い者から言わせれば、れっきとした『間違った認識』である

 

それでも、仮に彼の動画を一度も視聴したことのない方にとっては

 

僕の述べた情報があたかも『事実』であるかのような

 

そうでなくてもそれに近いものであるかのような『誤解』を与えるだろう

 

それこそが『情報伝聞の危険性』である

 

 

『誤った情報伝聞』の原因については、大きく分けて以下の三点が考えられる

 

一、「そもそも間違った認識している」

二、「認識自体は正しいがその伝え方を間違っている」

三、「そもそも認識をしていない」

 

以下に例を挙げる

 

「Aは不倫をしている。不倫相手はBであり、週末は必ずBに会いに行っている」

↑これをXが報道したとしよう

 

この報道をするにあたって、Xが収集した客観的事実は以下のものであるとする

「Aの仕事は土日が定休日である」

「Aは週に一、二回はBと会っている」

「Aは不倫をしているかもしれない」

 

さてここで論理的、数学的に『報道』とXの収集した『事実』を照らし合わせてみよう

 

まず「Aの仕事は土日が定休日である」、これは確かな事実である

 

だからこそXは予想した、「きっと休みである週末にBに会っているに違いない」と

 

これは「一」の『間違った認識』にあたる

 

なぜならば「休みである週末に」というのはXの主観であり

 

「どうせなら時間のある休日を逢瀬の機会に選ぶだろう」というのは

 

あくまでXがその当事者である場合においてのみ有効であり

 

Aの思考や行動原理を反映しているとはいえない

 

Aは、たまたま「火曜」と「木曜」は仕事が早上がりで

 

だからこそBの元へ通うのであり、「土日」はむしろ家族サービスに専念している

 

そしてその事実を知ると、「不倫をしている」という事実は消せないまでも

 

それなりに「家族を大切にしている」というまた一つの事実が浮かび上がってくる

 

 

次に「Aは週に一、二回はBと会っている」、これもれっきとした事実であるとする

 

だが報道においては、やはりその回数が多いに越したことはない

 

だからこそ、「週によっては一回」であるにも関わらず

 

あたかも「必ず週末(週に二回)はBに会っている」と報道する

 

これが「二」の「認識自体は正しいがその伝え方を間違っている」にあたる

 

あるいは「週末」という言葉をXが使う上で

 

必ずしもその両日を指しているわけではないのかもしれない

 

けれど、情報を受け取った側はそうは考えない

 

きっと「貴重な休日を家族ではなく、不倫相手のBに捧げている」と考えることだろう

 

 

だがそもそも、「不倫をしている」時点で週に一回だろうが二回だろうが

 

週末だろうが平日だろうが、その罪の重さに大差はない、と思われるかもしれない

 

それについて「Aは不倫をしているかもしれない」だ

 

Aはあくまで「不倫をしていると疑われているだけ」

 

つまりその事実はなかったものだとする

 

だが『状況証拠』という言葉があるように

 

「Bに会いに行っている」という事実があったとする

 

そしてBが年齢の近い、あるいはそれなりに「若い異性」であったとするならば

 

そこに不倫の疑いを持つことは容易であろう

 

だが、Aはただ単に「別の理由」をもってBに会いに行っているのだとする

 

そもそも『李下に冠を正さず』という諺にあるように

 

「疑わしき行いをするべきではない」という考えがあるのは勿論として

 

それでもAは「止むを得ない事情」によって、Bと会っているのかもしれない

 

そして「止むを得ない事情」というのは

 

AあるいはB以外の者には想像し得ないものであるかもしれない

 

それでもやはり、AとBにとっては「不倫」などという考えなどなかったとして

 

にもかかわらずXはそれを「不倫」と誤解し、あたかも真実であるかのように伝聞する

 

それが「三」の「そもそも認識をしていない」

 

つまり報道が当事者に与える『影響』を認識せず

 

その報道に関わる『誤解』を認識していない、ということになる

 

 

以上の例は、あくまで『報道者』あるいは『記者』について述べたものであるが

 

そうではない『個人』についても

 

自分では意図せずとも、「間違った認識」あるいは「都合よく簡略化された認識」を

 

『事実』として取り扱ってはいないだろうか

 

数値の簡略化は、情報を的確に認識する上では時に必要である

 

99.9%は、ほぼ100%として理解することは間違っていない

 

だが、そこに含まれる0.1%の可能性、あるいはリスクを全く認識しないのでは

 

やはり事実を往々にして捻じ曲げていることになりかねない

 

だからこそ、『情報』の取り扱いにおいては

 

『発信者』についても、最大限の配慮が必要であるが

 

『受信者』においても、それなりの検証必要性が求められるのだ

 

 

だからこそ、『中田敦彦YouTube大学』を視聴する上で

 

我々は、より多様な情報を収集し

 

ただ『知る』だけではなく、その事実について検証していくことが

 

あるいは形としては『炎上』であっても、それぞれに議論していくことが

 

真の意味での『学び』であり、『勉強』であるのかもしれない

 

『あっちゃん』はYouTubeを通して

 

僕らにそれを『教えて』くれているのかもしれない

『高畑充希』は演技上手い?下手?

 

『演技派女優』と聞いて、皆さんが思い浮かべるのは誰だろう?

 

古今東西、『若手』『ベテラン』、様々な女優がいる中

 

今や女優のみならず、『元アイドル』や『歌手』も

 

映画やドラマ、舞台などに活躍の場を広げ

 

中には『主演』を張る人物も少なくない

 

 

昔は『アイドルの演技』といえば

 

それはそれはヒドイもの(もちろん全員がそうではない)で

 

台詞は棒読み、身振り手振りは大袈裟のオンパレードで

 

それこそ見れたものではなく(それはそれで、ご愛嬌なのだが)

 

男女問わず、役者ではないタレントが演技に手を出すことを快く思わない

 

そんな風潮の時代もあった(今でも少なからず、そういった意見はある)

 

 

だが最近では、インターネットを始めとする

 

様々なエンターテイメント・コンテンツの普及のおかげもあり

 

誰もが気軽に映画やドラマ、いわゆる『演技』を観る機会が増え

 

また『演技』というものを勉強できる環境や

 

その方法が醸成されてきたこともあって

 

素人とはいえそれなりに、少なくとも見るに堪えないほどの

 

『大根役者』ぶりを披露してしまうタレントは、減ってきていると思う

 

ちょうど音楽というものが気軽に聴けて歌える環境が増えたことで

 

今の若者に『音痴』の人が減ってきているのと同じように

 

 

『演技』というのは簡単そうに見えて、やはりとても難しく

 

一朝一夕で身につくものではなく、単に技術だけで人の心を動かせるものでもない

 

何より『経験』が重要であり、その『経験』とは芝居の実績だけを指すものではなく

 

その人の『人生経験』であったり

 

生きている上での『糧』や『厚み』なども、大きく作用する

 

そういう意味では、やはり芝居経験も人生経験も豊富なベテラン俳優が

 

『演技が上手い』のはもちろんのことであるが

 

どの分野の世界にも、ときに『天才』と呼ばれる者が現れるように

 

芝居の世界のおいても、やはり各世代にそういった人物は存在する

 

そして、若手で『演技派女優』といえば、数々の名前が挙がるだろうが

 

その中の一人として、まず間違いなく名前が挙がるのが

 

高畑充希』さん、だろう

 

 

大きな瞳をクリクリとさせながら、コロコロと幾つも表情を変化させ

 

時に観客を不安にさせ、時には安堵させ

 

そうして気がつくと、物語の世界にいつの間にか引き込まれている

 

彼女の演じる、一癖も二癖もありながらもどこか憎めない

 

どこまでも愛らしいキャラクターに心奪われた方も多くいるだろう

 

数々の映画やドラマに出演し、主演級をいくつも務めあげ

 

その作品自体の評価も決して低くはなく

 

もはや『若手』と呼ぶにはあまりに堂々とした、安定感のある演技を披露している

 

 

だが、そんな中…

 

高畑充希』について、以下のような意見が聞かれることもある

 

高畑充希は、演技が下手」

「どの役も全部同じ演技」

「演技がわざとらしい」

 

人の好き嫌いは様々であり

 

『高評価』の多いYou Tubeの動画には必ず『低評価』も存在するように

 

多くの人が注目するものには、必ず『好き』と『嫌い』が混在する

 

『ファン』を持つ者には、いわゆる『アンチ』がつきものであるが

 

多くのアンチが、感情論に走る中で

 

こと『高畑充希』の演技の評価については、必ずしもそうとはいえない

 

なぜなら、その意見は実に当を得、的を射ているからだ

 

 

確かに彼女の演じている役、あるいはキャラクターは

 

おおよそ何パターンかに分かれる

 

僕はその全部を観ているわけではもちろんないが

 

その中のいくつかを観ただけでも

 

確かに「これとこれの役柄はほぼ一緒」だと感じたことはある

 

では、やはり高畑充希は少ない演技のパターンしか持たない

 

『演技の下手な女優』なのかというと、僕はそうではないと思う

 

そして今さらながら断っておくが

 

今回の記事は『高畑充希』の演技が上手いか?下手か?

 

それを論じ結論を述べる意図のものではない

 

そして、彼女の演技を否定するものではもちろんなければ

 

彼女の演技を称賛し、その同意を求めるものでもない

 

むしろ、ここでの論点は

 

なぜ彼女の演技が「どれも同じ」と一部で評されるのか

 

その一点のみについて、僕なりの分析をしてみたいと思う

 

(『演技』というそのものについての、僕なりの考えや分析はまた違った機会に)

 

 

それでは、「同じ演技」と言われる理由について

 

早速、僕なりの結論を述べようと思う

 

それはごく簡単なことで

 

「同じ演技を求められるからだ」とその一言に尽きる

 

 

映画やドラマ、舞台というのは『芸術作品』であることはもちろんだが

 

その一方、『商業的』な側面も切り離せない宿命にある

 

個人の劇団ならばともかく

 

それなりに膨大な製作費を投入されるテレビドラマや映画というのは

 

興行収入や視聴率を無視するわけにはいかない

 

特に昨今、そういったエンターテイメント・コンテンツの客離れが進んでいる中

 

プロデューサーはスポンサーの顔色をうかがい

 

ディレクターはプロデューサーの意見をないがしろにはできない

 

それもまた仕方のない現実である

 

つまり作品を創る上で、もはやヒットは宿命づけられているのだ

 

おいそれとコケるわけにはいかない

 

だからこそ、有名小説や大人気漫画の『映像化』が次々と行われているのが現状だ

 

 

万人受けするかわからない新作の脚本を用いるより

 

別のコンテンツではあれど、ヒットした作品をベースにする方が

 

より解りやすく期待値を上げることができる、それもまた当然の原理である

 

そしてキャスティングにおいてもそれは同様で

 

ただ演技の上手い俳優を使うより、人気のある美女やイケメンを起用するほうが

 

確実に一定数の客を掴むことができる

 

それを映画の衰退と見るかは自由であるが

 

エンターテイメントと商業が切り離せないものである以上

 

何度も言うようだが、それは仕様のないことでもある

 

 

そして『俳優』を起用する上で

 

もしあなたにキャスティングの全決定権があったとするならば

 

あなたはどう配役を決めるだろう?

 

自分のお気に入りの俳優を起用する、という意見もあるだろう

 

それはそれで悪くないと思う

 

いかに有名作品を原作に使おうが、オリジナルの脚本であろうが

 

いかに人気俳優を起用しようが、マニアックなキャスティングにしようが

 

結局は蓋を開けてみなければ、ヒットするかどうかなんて分からない

 

そういう意味では、自分の感性のみを当てにするというあなたは

 

クリエイター向きであるのかもしれない

 

 

あるいは緻密なマーケティング戦略を立て

 

ある意味では自己を殺し、観客の需要に応えることを全てとする方は

 

経営者、ビジネスマン向きなのかもしれない

 

 

どちらのタイプも一長一短、どちらが優れているというものでもない

 

ではあなたが仮に、「演技の上手い俳優」を起用したいと考えたとする

 

そもそも『演技が上手い』というのは何だろう?

 

ここぞという泣きの場面できちんと涙を流せる人物か

 

あるいは不自然じゃない、『自然な』演技をできる人物か

 

その判断基準はもちろん人それぞれであるだろう

 

ということは、あなたがいくらこの俳優は「演技が上手い」と思ったとして

 

観客は同じ判断基準で評価するかといえば、またそれは別問題ということだ

 

だとしたら、「演技が上手い」というのはいわば相対的な評価であり

 

そして、エンターテイメントが商業的な側面を持つ以上

 

どうしたって観客の意見が重視され、それがある種の絶対性を持つことになる

 

 

ではあなたは、どうやって「演技の上手い」俳優を起用するのか

 

それはその俳優の過去の作品を観て決めざるを得ない

 

そして、その俳優の『演技』を見て判断する

 

同時にあなたがクリエイターならば

 

自分の作品の中で彼ないし彼女が、どんな役回りを演じるかを想像するだろう

 

そうしていざキャスティングするにあたり、その俳優が演じる脚本を書くにあたり

 

どうしたって過去の作品で見出した『個性』を払拭することはできない

 

そして現にそれは、自分以外の観客からもそれなりに高く評価されている

 

あなたはきっと自分の作品においても、その俳優に「似たような演技」を求めるだろう

 

そうしてその俳優は、あなたにも次のクリエイターにも、あるいは観客にも

 

いつの間にか同じような役柄、同じような演技を酷使されることになる

 

 

俳優は表現者ではあるが、その仕事は『職人』に似ている

 

つまり需要が先に決まり、そこに自分の個性、技術を当てはめていく

 

もちろん仕事を選ぶこともできるだろうが

 

自分が「こういう演技をしたい」から、その仕事が決まるわけではなく

 

他人の創る作品の中で、自らの仕事を発揮する

 

そこは画家や音楽家とは異なる部分だ

 

だからこそ、同じような役柄を求められれば多少の幅は与えられようとも

 

基本的には、その範囲内で立ち振る舞うしかなく

 

それがそのまま世間の評価となる

 

かつて『木村拓哉』さんが、全ての役柄において「キムタク」を求められたように

 

自ら発信できるものがないわけではないが、やはり需要が先行した仕事なのだ

 

 

そして、『俳優』という一般的にはかなり特殊な世界の話ではあるが

 

それは、あなたの『仕事』においても、ある一つのテーゼを与えてくれる

 

つまり『需要ばかりに終始していては、あなたの個性や付加価値は失われる』という

 

当たり前のようでいて、実はとても重要な事実だ

 

仕事というのは(物理学においての『仕事』という意味ではもちろんない)

 

自らの労力の対価に報酬を得るという性格上

 

どうしたって需要が先行してしまう

 

だからこそ「求められたことをやる」というのが、その大部分を占める

 

けれど、もしあなたが需要にのみ供給を与えているのなら

 

あなたの仕事は何年経っても、「同じことの繰り返し」にしかならず

 

あなた自身のスキルを磨くことも、新たなる需要に応えることもできなくなってしまう

 

 

もちろん、需要がある以上「同じことの繰り返し」というのはそれもまた

 

誰かにとっては必要不可欠な供給であることは間違いない

 

だが、時には違うスキルを磨き、いつもとは違った仕事に挑戦してみるのも

 

あなた自身のために、必要なことなのかもしれない

 

あなたにはその自由が与えられているのだから

 

 

ちなみに、僕はごく個人的に高畑充希さんの演技が好きです

 

『植物図鑑』、演技を勉強したいという方にはお勧めの一作です

 

一般女性が結婚相手に求める『最低限の条件』とは?

 

最近、ネットである記事を見つけた

 

「一般女性が結婚相手に求める『最低限の条件』とは?」

 

正確なタイトルは忘れたが、大体そんな感じだ

 

そして、上記のような内容の記事は世間に五万とある

 

一体どこの誰に需要があるのかは分からないが

 

需要があるからこそ、似たような記事が量産されているのだ

 

 

そして、俗物的なタイトルに釣られた方がまた一人、リンクを踏む

 

そこにはおおよそ以下のような『条件』が羅列されている

 

・年収500万円以上

・正社員

・大卒

・ファッションのセンスが良い

・身長170センチ以上

 

そしてさらに記事によっては

 

・思いやりがある

・長男ではない

 

などなど、好き勝手な一般女性の『理想』あるいは『妄想』が述べられている

 

 

これを読んだ世の男性陣は思うことだろう

 

「そんな奴いねぇよ」、「仮にいたとしても、『お前』じゃ不釣り合いだよ」と

 

そして、誰にぶつけようもないモヤモヤとした感情を抱えたまま

 

乱暴に『BS』キーを押すことだろう

 

 

だが、ちょっと待ってほしい

 

あなたは今、一体誰に腹を立てているのだろう?

 

そんな身勝手な記事を書いた著者にか?

 

いいや、違う

 

あなたがムカついているのは『一般女性』に対してだ

 

より正確にいうと、記事で挙げられた『条件』を恥ずかしげもなく

 

自らを省みることもなく、無遠慮に

 

しかも『理想』ではなく、『最低限の条件』だと言い切る

 

そんな『一般女性』に腹を立てているのだ

 

 

この現象こそまさに「『架空の誰か』にムカつく」というものだ

 

今回は、その現象について記事を書こうと思う

 

 

あなたはきっとその『一般女性』に

 

あくまで便宜上使われたに過ぎない実体を持たない存在に、次々と人格を与えてゆき

 

さらには『理想』の語られている状況を想像することだろう

 

 

昼下りの小洒落たカフェ、そこで三人の女性が

 

これまた小洒落た飲み物(やたら名前の長い紅茶)を片手に談笑している

 

話題は過去の男性遍歴、あるいは『結婚』について

 

いわゆる『恋バナ』というやつだ

 

女性たちに今付き合っている者はいない

 

あるいはいたとしても、彼女たちの理想からは程遠い

 

そして、まるで過去の栄光にすがるように

 

昔、奇跡的に一瞬だけ付き合えたイケメンの話を幾度となく反芻している

 

けれど、その元カレも彼女たちから言わせれば、全ての条件を備えているわけではない

 

やがて一人の女性がおもむろに、何度も繰り返してきた台詞を吐く

 

「どこかにいい男いないかな~」

 

すると、それにつられるようにもう一人が

 

あるいは『条件反射的』に、お決まりの問いを投げかける

 

「どんな人が『理想』なの?」と

 

そして「待ってました!」とばかりに、訊かれた女性が独壇場を繰り広げる

 

女性たちのルックスは決して悪いほうではない

 

むしろ、どちらかといえば美人なほうだ

 

ファッションにはそれなりに気を遣っているし、男ウケもするだろう

 

ひと月に一回、少なくともふた月に一回は美容院に行き

 

メイクには余念がなく、ネイルもしていることだろう

 

そしてその派手派手しいネイルから想像できるように

 

もちろん家事はほとんどしないし

 

料理も、パスタを茹でて市販のソースをかけたものを『得意料理』と呼んでいる

 

 

あなたはこう思うだろう

 

今すぐその場に突入しテーブルをひっくり返し

 

彼女たちに『現実』というものを突き付けてやりたい、と

 

 

だが、冷静になって考えてみると分かる

 

それらは全てあなたの想像であり

 

その『一般女性』を作り上げたのは、あなたの脳なのだ

 

もちろん、世の中には様々な女性がいて

 

あなたが想像したのに近い女性もいるかもしれない

 

そして、今現在そのような会合が催されているかもしれない

 

だが、それが世の女性の全てではもちろんないし、『平均』であるわけでもない

 

そして上記に挙げた『条件』とやらも、一人の女性が言ったものではないかもしれない

 

数人から数百人にアンケートを取った結果

 

その中で比較的多く挙げられた『条件』を、ただ列挙しただけのものかもしれない

 

あるいは人によっては、本心ではなく答えた者もいるだろうし

 

『条件』を『理想』と解釈して答えただけの者だっているだろう

 

 

だが、そんな背景を瞬時に想定できた人は少ないだろう

 

まるで、世の女性が寄ってたかって

 

男に理想を押しつけているように感じたことだろう

 

そして『一般女性』というただの記号に、人格と顔を与え

 

自らの作り上げた『仮想敵』にひどく腹を立てたことだろう

 

それが寄せ集めの情報であるとは思わず

 

まるで現実に存在する『人物』として扱ったことだろう

 

それこそまさに、『架空の相手にムカつく』という現象なのだ

 

 

そのような現象は、上記の例に限らず日常にいくつも見受けられる

 

何かしら凄惨な事件や事故が起きたとき、あなたは加害者の顔を想像するだろう

 

きっと一目見ただけで殴りたくなるような、あるいはいかにもな悪人面をしていて、と

 

やがて、加害者の顔が公開されると

 

「意外とそうでもなかった」という感情はさして認識されることはなく

 

「こういう奴に限って…」と今度は違うイメージに上書きされて

 

その人物の過去や普段の姿が報道されると

 

「やっぱり」とどこか納得するか

 

「裏の顔を巧く隠してやがったな」と、またイメージを押しつける

 

だが、あなたの想像した『犯人の姿』は、もはやその加害者のものではなく

 

どこにも存在しない『架空の誰か』なのだ

 

 

我々は日々、様々な情報に囲まれて生活している

 

だが当然、全ての情報を手に入れられるわけではない

 

だからこそ、不明な部分については想像で補うしかない

 

それ自体は決して悪いことではなく、むしろ生きていく上で必須の能力だ

 

『想像力』とは人類の持つ、至上の能力の一つである、と僕は思う

 

だが『想像の飛躍』が、時に弊害となる場面も決して少なくはなく

 

そして『決めつけ』は、かえって次なる『想像力』を奪うことにもなりかねない

 

 

その『一般女性』はカフェで友人たちと別れたあと、急ぎ足でケーキ屋へ向かった

 

予約していた誕生日ケーキを受け取るため

 

実はその女性には彼氏がいて、もう付き合って五年になるのだ

 

彼女の理想には程遠いけれど、それでも彼のことを愛している

 

そして数年後、彼女はその彼氏とめでたく結婚することになる

 

友人たちに祝福されながら、小さな教会で形だけの結婚式をあげる

 

彼女は幸せだけれど、夫に不満がないわけではない

 

そして、また例のお決まりのカフェに集まり

 

今度は夫の愚痴と子供への理想を語り始める

 

 

それもまた『想像』であり、『決めつけ』であるかもしれない

 

だけどどうせなら、良い想像のほうがずっといい

 

 

『使えない』部下にイライラしない方法

 

「何度言ったら、わかるんだ!!」

「それくらい自分で判断しろ!!」

「自分で勝手に判断するな!!」

 

部下を叱責する理不尽な『台詞』の数々

 

上司や先輩に言われた経験や、自身が部下に言ってしまった経験はないだろうか?

 

誰もが最初は新人であり部下であり後輩であり

 

やがてベテランに、上司に、先輩になっていく

 

自分が上に言われて嫌だったことは、下には『絶対』言わない

 

そんな決意を固めつつも、いざ責務に忙殺され心の余裕を無くすと

 

つい同じような台詞を口にしてしまう

 

そうした経験は誰にだってあるはずだ

 

 

それについて、上司であるあなたが100%悪いなんてことはない

 

人は感情の生き物であるし、いつだって論理的に冷静でいられるはずもない

 

そうした意味では冒頭の台詞たちも、必ずしも理不尽とは言い切れない

 

 

だけどどうせなら、怒声を上げず叱責を飛ばさないほうが

 

現場の環境は良くなるだろうし、何より自分自身の精神衛生上としても良いだろう

 

かといって、部下のミスの尻ぬぐいをし、不満に耐えてばかりでは

 

やはり精神衛生上良くないことだろう

 

 

というわけで今回は、「部下にイライラしない方法」と題して

 

少しでも不満をため込まず、なるべく『イライラ』を軽減させ

 

何とか自分自身を納得させる方法として

 

僕が実践している簡単な思考法を紹介しようと思う

 

 

最初に断っておくが、僕は何も『叱る』ことが一概に悪いなどと言うつもりはない

 

もちろん、部下の今後のため、あるいは職場全体のために

 

時に叱らなければならない場面というのは、必ず存在する

 

だがその『叱り方』にしても、語気を荒げる必要はなく

 

むしろ感情を露わにせず、『諭す』というやり方のほうが

 

このご時世、何かと正しいとされている

 

けれどやはり感情を殺すというのは、いざ切迫した局面になると難儀なものであるし

 

僕にしたって、ついキツイ言い方になってしまう時はある

 

この思考法を実践したとして、全てのイライラが無くなるわけではないが

 

それでも頭のどこか片隅に置いておくと、少しはそのイライラが軽減される

 

では早速紹介させていただこう

 

 

その思考の根本となるのは、二つ

 

「他人に期待しないこと」と「他人を『駒』だと思う」ということだ

 

 

…それを聞くと、まるで冷酷非道な悪の親玉のような

 

人を人とさえ思わない、鬼畜人の考え方のように受け取られるかもしれない

 

だが、そうではない

 

 

そもそも、なぜ人に腹が立つかといえば、それは自分の想定との乖離によってだ

 

そえはあらゆる『怒り』という感情の原因として説明できる

 

他人のマナーの悪さに腹が立つのは、自分では「そうするべき」と考え

 

「おそらく他人もそう考えるだろう」という想定がいとも容易く破られることにあるし

 

ムカつく悪口や罵声というのは、まさか突かれると想定していなかった

 

自分の弱みや特徴を指摘されるからだ

 

例えば、「バカ」や「アホ」といった小学生でも思いつくような典型的な悪口に対して

 

ムキになって怒り狂う人が少ないように

 

想定できる罵声というものには、それほど腹が立たないのだ

 

逆に、「まさかそんなことを言われるなんて」と「そんな酷いことを」みたいな

 

想定を超えてくる悪口や、想定していない人物から浴びせられる罵声には

 

予期せず傷つくこともあるし、同時に『怒り』という感情が生まれる

 

つまり、確固たる『想定』があればあるほど

 

それを裏切られたときの振り幅は大きいのだ

 

だからこそ、『期待』という想定をできるだけ最小限に抑え

 

結果との乖離をなるべく小さくすることで、『裏切られた感』を無くすのだ

 

 

とはいえ、部下に期待しないというのはなにも

 

常に部下を『過小評価』する、という意味ではない

 

あくまで過度な期待を慎むということであり

 

逆に期待に応えてくれたとき、良い意味で期待を裏切られたときは

 

素直に部下の実力を認め、正当に評価する

 

それもまた、上司としての重要な役割であり

 

過度な期待をしないからこそ、より容易にできることではないだろうか

 

 

そして、二つ目

 

「部下を『駒』として考える」

 

これこそまさに、敵キャラがよく言いそうな台詞である

 

だが、ここでいう『駒』というのは無尽蔵に代えの利く

 

『使い捨ての駒』という意味では決してない

 

より具体的に言うならば、『将棋の駒』だ

 

 

例えば『麻雀』や『トランプ』のような運の要素が介在するゲームと

 

『将棋』や『チェス』のような実力のゲーム(運の要素が全くないわけではない)

 

前者と後者における違いは多々あるが、その中の一つとして

 

相手と自分との所持している駒の違い、が挙げられる

 

前者は、ゲーム全体に使用する駒(牌、カード)はもちろん一定であるが

 

何を引いてくるかは運に委ねられている

 

その点後者は、お互いに同数の同じ駒を盤上に並べるところからスタートする

 

だからこそ、将棋において『飛車落ち』などはハンデとなり得るし

 

より双方に『勝ち』の見込みのある前者のゲームのほうが、手軽でユーザー数が多い

 

 

麻雀やトランプにおいて、自分の『手役』や『勝ち筋』に絡まない駒は

 

『捨て牌』や、ときに邪魔者として扱われることがあるが

 

将棋においては、『捨て駒』という言葉も確かに存在するが

 

それはあくまで勝ち筋のための犠牲であって、無駄ではない

 

つまり将棋において、『いらない駒』というのは存在しないのだ

 

一マス前にしか進めない『歩』は、敵陣を攻めるまさに『第一歩』になるし

 

前進しかできない『香車』は、外側の攻守に『不穏な香り』を漂わせている

 

『銀』は横と後ろには行けないが、斜め後ろに下がれる『良さ』を持つのは

 

『王』と『角』以外では、『銀』だけだ

 

それぞれがそれぞれの特徴を持ち、『長所』と『短所』を持っているからこそ

 

戦略性は増し、ゲーム性が増す

 

将棋が皆同じ動きをする『駒』ばかりだったとしたら、すでにその文化は滅び

 

『天才』も『ひふみん』も現れなかっただろう

 

 

だからこそ、部下をそれぞれ特徴の違う『駒』に置き換えることで

 

それぞれの長所を生かし、短所を受け止めることができるのではないだろうか

 

『桂馬』の奇抜な動きに文句を言う棋士がいないように

 

我々もまた、棋士のように盤上の駒の良さを活かし、使い切ることで

 

仕事の成功、あるいはそれによる喜びを手に出来るのではないだろうか

 

 

そして、将棋にはチェスと違った大きな特徴が二つある

 

それこそが将棋において、人間がコンピュータにまだ完全敗北していない理由でもある

 

それは『取った相手の駒を使えること』と『相手の陣地に入ると『成る』』という事だ

 

その要素こそが、将棋というゲームをより複雑で面白くしている

 

これまで対立していた勢力の部下を、自陣の部下と同じ待遇で扱い

 

一歩ずつしか進めなかった『歩』がやがて、最強の駒の一つである『金』に成長する

 

それもまた上司の喜びであり、仕事の上での面白さではないだろうか