ひよこねこ

ブログ初心者が100記事で収益化を目指す!!

『差別』の根本とは、何か?

 

今日は少し、ディープな内容というか

 

人類における『最大の問題』であり

 

あるいは、世界で起きているあらゆる問題の『根本』とも呼ぶべきものについて

 

扱わせて頂くことにする

 

 

それは『差別』について、だ

 

 

その言葉を聞いて十分お分かり頂けるように

 

この『テーマ』について語る以上

 

どうしたって、センシティブな記事になってしまうことは必定である

 

筆者としてはここで述べる文章については

 

もちろん最大限に配慮させて頂くつもりだが

 

それでも自らの勉強不足のためか、あるいは認識不足のため

 

予期せずに一部の方を傷つけてしまうかもしれない

 

だが、最初に断っておくが

 

この記事において(全ての記事がそうであるつもりなのだが)

 

特定の民族、文化、考えを否定し、貶めるつもりはないこと

 

それだけはどうかご理解願いたい

 

 

前置きがやや長くなってしまったけれど

 

これについては、どうしても省略することは出来なかった

 

それでは、まず自身の体験から

 

差別意識』について考察することで

 

いよいよ本題に入っていこうと思う

 

 

ある日、僕がバスに乗っていると

 

三人組の『外国人』が乗ってきた

 

おそらく中国か韓国、アジア系の訪日客と思われるその乗客は

 

両手に大荷物を抱え、バスの中央部の席に

 

前一人、後ろ二人という形で陣取った

 

そこが『優先席』であることに、何ら問題はない

 

バスは空いていて、僕を含めて「立っている者」は一人もいなかったし

 

彼らの座った席以外にも、空席は他にいくらでもあった

 

ただ彼らは乗り口から近いその席を、たまたま選んだというだけなのだ

 

 

やがてドアが閉まり、バスが動き出す

 

すると、その訪日客は何語かよく分からない言語で

 

『大声』で会話を始めた

 

何を話しているかは当然わからない

 

おそらく、次の行先やこれまで居た場所についての感想を語っているのだろう

 

我々日本人が観光で他国を訪れたとき、よくする会話であると推察した

 

それ自体はやはり何の問題でもない

 

だが問題は(それも『問題』というほど騒ぎ立てるべきものではないかもしれないが)

 

その外国人の声が必要以上に大きく

 

(それも僕の主観であり、客観的な根拠は存在しない)

 

バスの最後方の席に座った僕の耳にも届き

 

それどころかバス全体に響きわたる音量であったことだ

 

 

ただ声が聞こえてくるだけなら別に構わない

 

けれど、彼らの会話の節々に挿入される『リアクション』はいちいち大きく

 

その度に発せられる嬌声や感嘆符に

 

空白時間を読書で潰していた僕は気を取られ

 

ついには読書を断念してしまった

 

そして、しばらく遠目に彼らの様子を観察することを暇潰しの材料に選んだ僕の心には

 

「爆買い」や「インバウンド」というワードが浮かび

 

あまりポジティブとはいえない思考が訪れてしまった

 

 

そして目的地までの旅路を彼らと共に過ごしている最中、ある瞬間にふと

 

こんな考えが浮かんだ

 

もし彼らが、僕らとほとんど見た目の同じ『黄色人種』でなかったなら

どう思っただろうか、と

 

そして、その思いつきは僕に「差別の根本は何であるか?」について

 

ある重要な示唆を与えてくれた

 

差別の根本は『違うこと』ではなく、『同じだと思い込むこと』にある

 

 

それは僕がそんな「日常的によくある体験」を通して

 

自身が感じ、あるいは『戒め』として自らの胸に刻み込んだ言葉だ

 

つまりは『差別』とは決して『違う』から起こるのではなく

 

自分たち(集団)と『同じ』

 

あるいは『同じであるべき』と思い込むからこそ発芽するものなのだ、と

 

 

(これについては人によって感じ方は違うかもしれないし

 

ここでする僕の『比較』こそ、「差別的内容」を多分に含んでいるのかもしれないが)

 

もし仮に、バスに乗ってきたのが「黒人」や「白人」であって

 

そこで交わされる言葉が「英語」や、ヨーロッパ圏の言語であったなら

 

僕はそれほど不快に思わず、あるいは読書を継続することだって出来たかもしれない

 

理解できぬ言語(それは「中国語」であろうが「韓国語」であろうがそうではあるが)

 

を『雑音』として聞き流し

 

『観光客』が浮かれているだけだと

 

寛容な心持ちでやり過ごすことだって出来たかもしれない

 

なぜなら、彼らは元々リアクションが大きく

 

「公共の場においては静粛にすべき」という文化を持たない民族であると

 

どこかから仕入れてきた情報によって、『知っているつもり』であるからだ

 

(その一方的認識についても、『差別』の要素は含まれているのだが)

 

だから僕は、母国語を話さなければ一見して「外国人」と分からない

 

「他国の文化」に生きる者に、ネガティブな感情を抱いてしまったのである

 

 

そうした僕自身の『無意識な嫌悪』には

 

実は、あらゆる場面における『差別的感情』

 

そして、それを元に行われる『差別的行動』

 

の基本原理が隠されているのではないかと思う

 

 

人類を問わず、あらゆる生物には『差別意識』が潜在している

 

それは「種の繁栄のため」「外敵から自衛するため」

 

あるいは「食料か否かを判断するため」に

 

『違い』を見分け、『区別』することは

 

生物の生存にとって重要な能力である

 

だからこそ我々人類にとっても、その『能力』は必要不可欠なものである

 

だが「毒性植物」が自らの種の繁栄のために擬態するように

 

「よく似た別の何か」というものにこそ

 

我々はその能力を最大限に発揮しなければならず

 

「よく似ているけど、違う」というものに対して

 

我々は、より警戒を強めるのである

 

 

例えば、いかにも「悪人」そうな人物に対して、最初は警戒心を抱くものの

 

一度その予想が裏切られれば、手放しに「善人」だと思い込んでしまうように

 

逆に、いかにも「善人」そうな人物に対しては

 

たとえその人物が真なる「善人」であったとしても

 

そう簡単には疑念を払拭できないように

 

我々は、「自分と違う」(あるいはそう考える)ものについて

 

最大限の警戒をするのではなく

 

むしろ「自分と似ているけど、違う」ものにこそ

 

より深く注意を払うものなのだ

 

 

我々日本人は立海の孤島、島国であるからこそ

 

『差別』という問題については、どこか他人事のような

 

「他国の問題」のようなイメージを持ちがちである

 

実際、アメリカのような『多民族移民国家』のように

 

あらゆる民族の暮らす国土ではなく

 

「外国人」というのは、せいぜいクラスに一人いるかいないかくらいのものだ

 

だからこそ、我々は『差別の意識』などなく

 

同じ日本に暮らす『国民』を

 

「自分と同じであるべき」とつい思い込んでしまいがちだ

 

 

よく漫画やアニメなどで

 

「この下等生物が!」とか「動物並だな」という悪役の台詞があるが

 

それは本当にそう思っているからではなく

 

むしろ「自分と同じであるべきであるのに、違う」

 

という意識から生まれる言葉なのではないだろうか

 

動物や虫などにわざわざ、「お前たちは『人間』じゃない」とは言わない

 

それと同じで、かつてのアメリカでそうであったように

 

「黒人は『奴隷』だ」という考えには

 

「同じ人間だけれど、自分より『劣っている』」という

 

自分との比較が含まれている

 

(『家畜』にわざわざそんなことを言う者はいない)

 

 

我々は周知の通り、同じ地球、同じ世界で暮らす

 

生物学的に見れば『人類』という同種の仲間である

 

けれど、『個々の違い』については十分に認識しているつもりだが

 

それでも、おおよそ『同じであるべき』という誤解からは解放されないでいる

 

それは「人種」のみについてそうであるわけではなく

 

「男女」や「身体的特徴」、「信仰」に至るまで

 

「自分と似ているけれど少し違う」ものについて

 

しっかりと『違い』を認識し、それを受け入れていくことが

 

『差別』あるいは『いじめ』といった

 

人類根本の問題を解決することに繋がるのかもしれない

 

 

<iframe src="https://blog.hatena.ne.jp/hiyokoneko13/hiyokoneko13.hatenablog.com/subscribe/iframe" allowtransparency="true" frameborder="0" scrolling="no" width="150" height="28"></iframe>