ひよこねこ

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「ゲーム」という娯楽における価値とは?

 

今回も筆者自身のある「体験」から記事を始めさせて頂こうと思う

 

 

先日、普段あまり話すことのない職場の人間と話しをする機会があった

 

「話すことのない」といっても、それは関係性や立場に起因するものではなく

 

いわば「タイミング」の問題であり

 

「あまり話したことがない」といったほうが正確かもしれない

 

 

筆者が普段、他者と話すうえで心掛けていることの一つに

 

「相手の話から何か得られるものを見つける」というものがある

 

もちろん、日常会話において「常に意識しているか?」といえばそんなことはなく

 

「中身のない他愛な会話」や「その場のノリ」に興じることも

 

それはそれで大好物ではあるのだが

 

自分の「得意分野」や「趣味嗜好」から外れた領域の話を聞くときは

 

特に、強く意識していることである

 

 

彼の名を仮に「Aくん」と置くことにしよう

 

Aくんはどちらかといえば、あまり口数の多いほうではなく

 

これまで彼の「内情」や「身の上」、あるいは「趣味嗜好」について

 

積極的に話す機会はなかった

 

もちろん、筆者としても無理にそれを聞き出そうと思っていたわけではない

 

たまたま休憩が一緒になり、控室で過ごすことになったので

 

この機会にと、とりあえず差しさわりのない会話から始めた

 

ここ最近の「社会的共通話題」といえばやはり

 

「コロナウィルス」についてである

 

その問題における、「社会の情勢」や「職場への影響」などを話した

 

Aくんは大学生の「バイト」である

 

次にAくんの学部についての話を聞き

 

そこからいよいよ「趣味」なんかの話にうつる

 

僕が決まって最初に聞くのは「音楽」の話であり

 

それについては、ここで何を話したかは覚えていない

 

つまり、その内容はあまり彼に「刺さる」ものではなかったらしい

 

そして、「普段何をしているの?」という質問から

 

いよいよ彼自身の「専門分野」に関する話を引き出す話を聞くことができた

 

彼の趣味は「ゲーム」だった

 

 

筆者自身も、子供の頃から人並にゲームを嗜んでおり

 

あまり巧くはないものの、それなりに「熱中」することもあった

 

そこでやや「前のめり」になりつつ

 

「どんなゲームをするの?」と当然の如く訊くことにした

 

彼から返ってきたのは、予想外の答えだった

 

Aくんが熱中しているゲームは「テトリス」だった

 

誰もが知っている「タイトル」であり

 

ある年代以下の者において、一度もやったことのない者は少ないだろう

 

誰でも簡単にプレイできるゲームであり、単純な操作性のものである

 

どうして彼がそこまで熱中しているのか分からなかった

 

だが、それは彼の「プレイ動画」を見てすぐに分かり

 

また、その一見して単純そうに見えるゲームの「奥深さ」についても

 

同時に解ったような気がした

 

それは僕の想像を遥かに凌駕するものだった

 

 

テトリス」というのは、一言でいえば「ブロックを積み上げていく」ゲームである

 

いわゆるプレイヤーの「領域」に次々と落下してくるブロックの「形状」を駆使し

 

「一段」揃えることでブロックが「消失」し

 

それによって「加点」、あるいは相手がいる場合は

 

相手に何かしらの「ペナルティー」を与えることで

 

相手プレイヤーを追い詰め、勝利していくというものである

 

そこには「正確な判断」と「正確な操作」が求められる

 

そして、多くの者においてそのゲームの「結末」は

 

ある種の「運」や「誤操作」によって決まるものである

 

ゆえに一般的には「単純で退屈なゲーム」と取られることが多い

 

だが、Aくんのプレイはそうした我々の「テトリスにおける認識」を

 

根底から覆すものだった

 

 

まず、ブロックの「落下スピード」がとてつもなく速い

 

それはまさに「目で追えない」ほどであり

 

常人には、次に落下してくるブロックの「形状」を確認することもできず

 

あたかも自動的に「下から」ブロックが積み上がっているように見えた

 

次々と「積み上がって」は「消え」を繰り返し

 

とてつもないスピードで展開していく

 

とても「スピーディー」なゲームだった

 

 

当然、Aくんのそのスピードに対抗できる「コンピューター」の相手はなく

 

彼が闘う相手は、別の「超人プレイヤー」であり

 

「コンピューター相手」では、そもそも勝負にすらならないというのが

 

彼の「悩み」でもあるらしかった

 

けれど彼からすれば、「自分はまだまだ」であり

 

その「自己評価」は我々には到底理解できないが

 

おそらく「謙遜」ではないのだろう

 

だが、それはともかくとして

 

その「神業」とも思える彼のプレイに、筆者は純粋な「感動」を覚えた

 

 

そして「凄い」と感じた「熱量」を

 

そのまま「別の誰かに話したい」というのも筆者の性分である

 

もちろん職場の人間に「言いふらす」なんてことはしたくなかったが

 

あくまでAくんの名前を伏せたうえで、職場外の知人に話すぶんには構わないだろうと

 

筆者は早速、その「神業」について他者に語ることにした

 

(あるいは、この記事の導入に過ぎない部分を

 

これだけの文章量で語ったこともその一つかもしれない)

 

だが、その知人の「反応」は僕の想像したものとは大きく異なっていた

 

知人の反応は筆者の熱量に対して、あまりにも「淡泊」なものだったのだ

 

 

テトリス」というゲームについては、もちろん知っていた

 

そして、その一見した「単純さ」についても、前述の通りである

 

だが、それは「いかに単純そうに見える事柄でも、極めれば凄い」という

 

話の展開における「意外性」という効果を期待するものだった

 

だが、筆者がいよいよAくんの「神業」について語る段においても

 

知人の反応は「へぇ~」といった、「感動」とはあまりにかけ離れたものであり

 

知人の感想は、口にこそ出さないまでも

 

「で?それが『何の役に立つ』の?」といったものに感じられた

 

 

あるいは、知人の感想はその通りであるかもしれない

 

いかに「テトリス」、いやそれ以外のゲームを極めたところで

 

それが「生活」において、どのような『価値』を持つかは不明である

 

一部の「ゲーム」においては、「大会」などの「技を披露する場」があり

 

それによってある種の「市場」を形成することもある

 

テトリス」において、そのような市場があるのかは分からないが

 

少なくとも、Aくんについては今のところ

 

「ゲームで金を稼ぐ」ところまではいってないようだ

 

だとしたら、彼のテトリスにおける「努力」は

 

他人にとって『価値』のない「徒労」であり

 

また、自己においても単なる時間の「浪費」に過ぎないのだろうか?

 

筆者は違うと思う

 

 

「時間」が有限であることは、まさしく自明であり

 

「資産」においても、個人差による開きはあれど、同じである

 

「時間」を「資産」の一部とするならば

 

全ての『資産』は有限であり、有限であるからこそその用途においては

 

自己の「意思決定」に委ねられる

 

全ての「消費」は、あるいは「投資」と換言することができ

 

「投資」と呼ぶからこそには、それによって得られる「利益」ばかりが重視される

 

だから、「利益」に結びつかないそれらの「消費」は

 

まさに「浪費」であり、「無駄」と切り捨てられる

 

だが、本当にそんな風に単純に割り切れるものなのだろうか?

 

 

例えば「スポーツ」における「努力」は

 

その者が「プロ」になれなければ、「無駄」に過ぎないのだろうか?

 

多くの者が「それは違う」と否定するだろう

 

部活で築いた「人間関係」、「肉体」と「精神」の向上

 

あるいは「礼節」や「努力することそれ自体の価値」など

 

いくらでも、その『価値』を見出すことは可能だ

 

ではなぜそれが、「ゲーム」においては見出せられないのか?

 

それについての論理は、未整理のままだ

 

 

昨今、「eスポーツ」など、一部のゲームにおいて

 

その技術や「エンタテイメント性」が取り上げられる世間的な動きもあり

 

ゲームというものが必ずしも「個人の浪費」とは呼べない

 

という論調が持ち上がってきた

 

だが、やはりまだまだその「市民権」が確立されたとはいえず

 

いまだに、それを単なる「無駄」と切り捨てる識者も少なくはない

 

「目が悪くなる」といった意見はまさしくその通りであり

 

今のところゲームというものが「視覚情報」にその重きを置いていることからも

 

決して見逃すことのできない「リスク」の一つである

 

だが、それはスポーツにおいても同じではないだろうか?

 

スポーツをする上でも「怪我」などのリスクは付きものだ

 

むしろ、ゲーム以上にその影響は深刻かもしれない

 

「スポーツをしていて怪我をするのは仕方ないが

 

ゲームをしていて視力が落ちるのは看過できない」というのは

 

単なる主観的、恣意的な意見に過ぎない

 

 

そして「ゲームをしていると頭が悪くなる」というのは、まさに

 

謂れのない、ある種の「偏見」による「情報操作」である

 

もちろん、「ゲームばかりしていてはいけない」というのはもっともであり

 

何事においても、「バランスを保つ」というのは肝要である

 

だがそれは、他の分野においても同じではないだろうか?

 

確かにゲームというものが、その「娯楽性」の高さによって

 

多くの子供たちによって容易に受け入れられ、熱中してしまうことによって

 

「子供」という、自分の将来を決定する「材料」の選択を

 

しばしば誤ってしまう存在においては

 

ある種の「危険」を孕んでいることは否定できないだろう

 

そこには時に「大人の判断」や「コントロール」が必要なのかもしれない

 

だがそれと同時に、やはり「ゲームからしか得られないもの」というのも

 

確実にあるはずである

 

それは「体験」を模した「経験」であり

 

決して「仮想」ではない、「成果による報酬」であり

 

「友人との結びつき」だ

 

それらは、決して無駄なものなどではなく

 

子供の「人格」を形成する上で、あるいは大人になってからも

 

しばしば思い出す、貴重な「体験」なのではないだろうか

 

 

筆者が子供の頃は、いわゆる「ポケットモンスター」が最盛期を迎えた頃で

 

ゲームボーイ」片手(両手)に、友人たちと遊んだものだった

 

「交換」や「対戦」、それらに熱中した日々を今でも鮮明に覚えている

 

もちろん、そこに「ゲーム」が無くとも

 

それはそれで別の「遊び」を見つけていたのかもしれないが

 

ゲームがあった日々というのが当たり前で

 

それが無かった日々というのを想像することは難しい

 

他にも「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」など

 

筆者は「RPG」の有名タイトルばかりを遊んでいたが

 

まだ「映像技術」の途上にある、それらのゲームにおいて

 

今にして思えば、あまりに陳腐にすら感じる「キャラクター」や「風景」に

 

感化され、「非現実」の中を遊び回っていた

 

初めて「ムービー」というものがゲーム内で登場したとき

 

それは雑な「ポリゴン」に絵を貼り付けただけの「のっぺり」としたものだったが

 

それでも筆者は「ムービーが入ってる!」と

 

限りない感動を覚えたことを記憶している

 

 

当時の「大人たち」からすれば

 

それはあまりに「稚拙な感動」であり

 

単なる「子供騙し」に過ぎなかったのかもしれない

 

だが、子供である我々にとってはまさしく

 

「何にも代えがたい感動」だったのである

 

そして、その感動を生み出していたのは紛れもなく

 

当時のゲーム開発者である「大人たち」であり

 

いつの時代も引き継がれる「大人と子供」の対立構造を

 

目に見えない相手ながらも、ゲームを通したその結びつきによって

 

解消させるものだったのかもしれない

 

 

物事の『価値』というものは

 

その者の「立場」や「状況」、「性差」や「年齢差」によって

 

往々にして変化するものである

 

全てのものに『価値』を見出すことは難しく

 

他者にとっての『価値』を否定することは簡単だ

 

だからこそ、全国民が従うべき「法律」において

 

ある価値を「規制」するに至っては

 

十分に考慮し、配慮していかなければならない

 

それは一律的な『時間的制約』であっては決してならず

 

あらゆる立場や状況、『価値』を勘案したものでなくてはならない

 

もちろん、一度決まってしまった法律ないしは「条例」については

 

従うべきだろうが

 

これからも盛んに議論していく必要があり

 

かつて「子供」だった全員に、その「義務」はあるのではないだろうか