ひよこねこ

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『差別』の根本とは、何か?――アメリカ黒人差別問題――

「コロナウィルス」の大流行がいまだ収まらぬ中

 

現在、世界で持ち上がっている、もう一つの『問題』がある

 

いや、何もそれは昨今突如として「飛来」した問題などではなく

 

あるいは「ウィルスとの戦い」と同じく、長い「歴史」で語られるべき

 

我々人類の中に存在する「病巣」との「戦い」の記録である

 

それは『人種差別』の問題だ

 

いわゆる「ジョージ・フロイドさんの死」に端を発した、今回の『運動』は

 

今や「世界」を巻き込んだ規模で展開され

 

これまで、どこか「対岸の火事」のような心境でいた、「日本」においても

 

「渋谷」での『デモ』などを中心に、大きく取り上げられ

 

まさに「全世界的」な『潮流』となりつつある

 

 

公民権運動」、「ロサンゼルス暴動」など

 

幾度となく『運動』や『暴動』が繰り返されてきた「歴史」の中

 

これまではどちらかといえば「アメリカ国内での問題」という様相を呈していた

 

『黒人差別』が、どうして今になって世界に波及しているのかといえば

 

そこにはやはり「SNS」の発達があるだろう

 

無論、「当事者」にとってはまさに「我慢の限界」であり

 

繰り返される歴史に、いよいよ「終止符」を打つべく

 

「立ち上がった」のだという見方もあるだろう

 

 

いわゆる「きっかけ」となった凄惨な「事件」から一ヵ月以上が経ち

 

ますます「運動」が激化し、様々な「意見」が飛び交う中

 

その「一部」では、『差別』というものを「少し違った視点」から捉え

 

人によっては「それはちょっと違うんじゃない?」と思われるような

 

「思想」や、それに伴う「運動」が起き始めている

 

例えば、ある「化粧品会社」が「美白」を謳った商品の販売を中止したり

 

ある「歴史的映画」が「黒人差別」を肯定していると批判を受けたり、など

 

『差別』というものを過剰に忌避するあまり

 

まるで「言葉狩り」の如く、その「意図」に関わらず「断罪」されているのだ

 

 

そういった「運動」自体の「正誤」についての言及は、ここではしない

 

むしろこの記事においては、より「根本的」な部分に焦点を当ててみようと思う

 

それはすなわち

 

『差別』の根本とは、何か?

 

という、まさに「根源的」な疑問である

 

それについては過去に一度、このブログにおいても取り上げたことがある

 

hiyokoneko13.hatenablog.com

 

「内容」や「主張」としては同種のものであり

 

ここで改めて書くに及ばないのかもしれないが

 

昨今の状況も踏まえたうえで、我々人類がその『問題』に立ち向かう中

 

あくまで「一筆者」の意見として、考えを述べさせて頂こうと思う

 

 

筆者の「主張」は五ヵ月前のものと何ら変わりはない

 

それを「一文」に要約するならば

 

「『差別』の根本とは『違う』からではなく、『同じ』とみなすことにある」

 

というものだ

 

まるで単なる「言葉遊び」のような、「逆張り」だけの意見に思われるだろう

 

だがそこにはもちろん、きちんとした「論理」がある

 

 

それについて解説する前に、まずは我々「日本人」にとって

 

『黒人差別』というものが、どのような「意味」を持つのか

 

それについて、これまで一度も「海外」に出たことがなく

 

「世界史」の知識もそこそこである

 

「浅慮」で「無知」である筆者の視点から述べさせてもらうならば

 

それはまさしく『他人事』である

 

「語弊」を恐れず、あえてそう言ったのだが

 

もちろん「『人種差別』なんてどうでもいい」とか

 

「『黒人』は虐げられてしかるべし」などと考えているわけではない

 

むしろ「同情」の気持ちや、それに伴う「怒り」の感情は少なからずある

 

にも関わらず、なぜあえてそんな言い方をするのか

 

また、そのような言い方をしなければならないのか

 

それは「島国」で暮らす我々にとって

 

『他民族』、『他人種』というものがあまり「日常的」なものではないからだ

 

 

たとえば「職場」、あるいは「隣人」、さらには「学生時代」を思い返して

 

果たしてそこに『外国人』という存在が、一体どれだけいただろう?

 

もちろん「環境」によってはそれなりに多くの『外国人』と接する機会もあるだろうが

 

筆者の「職場」には一人もおらず

 

「学生時代」においても、せいぜい学年に「一人」か「二人」の割合に過ぎなかった

 

それが我々日本人の日本における「現状」だ

 

そこにおいて、いわゆる『黒人』という人種の方を

 

「一度も見たことがない」という者はさすがに居ないだろうが

 

やはり生活に「密接」した存在とは言い難い

 

そんな我々にとって、『黒人』といえばまさしく『外国人』のことであり

 

(無論、「日本国籍」を持った方もいることは分かっている)

 

それはいわば日本における「お客様」であり

 

あくまで「期間的」に「もてなすべき」存在に過ぎないのだ

 

 

だが『他民族国家』である「アメリカ」などは違う

 

様々な『民族』、『人種』、あるいは『思想』や『宗教』が混在し

 

その「背景」はともかく、それらを受け入れることで「発展」を遂げてきた

 

それももちろん「環境」によるだろうが

 

そうした「国」においては、ごく当たり前に「自分と違う」人々が

 

それなり多く含まれる「社会」の中で日々生活を営んでいる

 

だからこそ『人種差別』というものは彼らにとって

 

より「深く」、日常に「根差した」問題であり

 

決して避けて通ることのできない「現実」なのだ

 

 

筆者はこの記事の冒頭で「対岸の火事」という言葉をあえて選ばせてもらった

 

それは、「無関係」を決め込むというスタンスによるものではなく

 

むしろ、どこか「無関心」で居られらずを得ないという「自戒」が込められているのだ

 

 

だがもちろん、『差別』というものは何も『人種』に限られたものではない

 

『性差別』や『部落差別』、『宗教差別』や『職業差別』に至るまで

 

実に様々な『差別』が、日本においても存在している

 

また『人種差別』にしてみても、それ自体は決して我々日本人に無縁のものではなく

 

たとえば『アジア人』に対する差別などは

 

「する側」、「される側」、その両面からも我々の中にあるのだ

 

 

それらの前提を踏まえたうえで、ここで改めて「本題」に戻ることにしよう

 

そもそも人類を問わず、「生物」というものにとって

 

『違いを見出す』ということは、生きていく上での必須の「能力」だ

 

たとえば「毒」かどうかを見分けるのもそうであるし

 

「味方」か「敵」かどうかを判断することにも、それは不可欠だ

 

それは時に「生死」を分ける重要なものであるし

 

我々生物は「進化」の過程で、さらには「成長」の途上で

 

その「能力」を磨き、高めてきた

 

それは「判別」と呼べるかもしれないし、「区別」と呼ぶべきかもしれない

 

だがやはり、それもまた『差別』の一種と呼べるだろう

 

 

「区別」と「差別」とは違う、と意見もあるだろう

 

だがそうした「言い換え」は、あくまで「方便」に過ぎないと言わせてもらう

 

あるいはそのどちらの「言葉」を用いたとしても良い

 

そもそもなぜ我々が「区別」しなければならないかといえば

 

それは前述の通り、「生きていくために必要」だからだ

 

そして「毒」や「天敵」と呼ばれる存在は

 

しばしば「薬」や「無害」を装って近づいてくる

 

何も野山に分け入らずとも、社会において

 

「詐欺師」はあたかも「善人」を偽って寄ってくるだろうし

 

物語の序盤においてあからさまな「悪人」は、後半では「いい奴」の顔を見せる

 

我々は「経験」からそれを知っているつもりであるし

 

あるいはどこかで、そうした「逆転」を「期待」しているのだ

 

 

ここで重要なことは、その『違い』において

 

「大きな差異」を我々が問題にするのではなく

 

むしろ「小さな差異」にこそ、我々はより「注意」を払うという点だ

 

たとえば「他の動物」、「犬」や「猫」を指して

 

「あいつらは人類とは違う」などと取り上げたりはしない

 

それは「明らかに違う」と分かりきっているからだ

 

もちろん「ペット」を「家族」のように扱うこともあるが

 

どこかでやはり生物として「異なる」ことは理解している

 

だから我々は「差異」ではなく、むしろその「共通項」にこそ注目する

 

 

ならば『他人種』についてはどうだろう?

 

「彼ら」が我々と『同じ』人間であることは分かりきっている

 

たとえ「いや、奴らは『奴隷』だ」とか

 

「いや、我々とは『肌の色』が違う」と言ってみたところで

 

それは明らかな「事実」なのだ

 

だが、それではいささか「都合が悪い」と考える

 

前述した通り、我々は「似ているものにこそより注意を払うべきだ」

 

と、あるいは「遺伝子」に書き込まれている

 

「同族嫌悪」というのは、その「共通項」を忌避するようでありながら

 

その実は、わずかに含まれる「差異」こそを嫌悪するものに過ぎない

 

そうして我々は『違い』を見出す努力をする

 

そのための「儀式」こそが、『差別』の根本なのだ

 

 

すなわち『同じ』であるからこそ、見つかるささやかな『差異』

 

あるいは『同じ』と「みなす」からこそ生じる、受け入れがたい『差異』

 

なぜ、同じ「人間」であるにも関わらず

 

「自分」と『肌の色』が、『言語』が、『思想』が違うのか

 

もしも、同じ「人間」であるならば

 

「自分」と「同じ」であって然るべきである

 

だがそうではない

 

だからこそ『違い』を見出そうとする

 

そうした「プロセス」こそが、『差別』の根本的原理なのだ

 

 

ここでもう一つ「例」を挙げよう

 

『民族差別』において、かつての「ドイツ」で

 

ある「政治家」が、ある「政策」を打ち出した

 

ユダヤ人大虐殺」、いわゆる「ホロコースト」である

 

その詳細については、学校教育で学んだ知識と少し調べたくらいのものでしかない

 

その「背景」については、「第一次世界大戦」の直後における

 

ドイツの「情勢」も大きく関わってもいるだろう

 

それは、かの「政治家」の「独断」でありながら

 

それは決して、彼のみを「弾劾」するべきものではなく

 

あるいは世界全体に及ぶ「問題」である

 

それについて、ここで詳しく語るつもりはない

 

筆者がここで述べたいのは

 

「なぜ、一部の特定の『民族』が虐殺されなければならなかったのか?」ではなく

 

「そもそも、どうやって虐殺する『民族』を特定するに至ったのか?」ということだ

 

少なくとも我々『アジア人』にとっては

 

かつての映像や教科書の挿絵を見る限り

 

『ドイツ人』と『ユダヤ人』との違いは明白ではない

 

あるいは彼ら自身にとっては、その「差異」は明らかであったのかもしれないが

 

もし、かの「政党」がその『宗教』や『思想』で彼らを判別したならば

 

その「違い」は外見から容易に分かるものではなかっただろうし

 

もし仮に、何らかの「戸籍」などの「データ」において判別していたとすれば

 

それはやはり「違い」を見分けることが困難であったのだろう

 

そのうえで『ユダヤ人』を選別したとするならば

 

その行為はまさしく、『同じ』ところからの『違い』の判別であり

 

選別を終えた後になって

 

やれ「『血が』」とか「『人種』が」、「『民族』が」

 

などと言ったところで、筋は通らないのである

 

「いや、そもそも見分けられていなかったし…」と

 

「無理やり『違い』を見つけただけじゃん…」と

 

まるで『差別』が「目的」にあるようで

 

実は「手段」に過ぎなかったという、矛盾がそこにはあるのだ

 

だからといって、かつての『大虐殺』において

 

差別意識はなかった」というつもりはもちろんない

 

むしろ政策を推し進めた、その「手段」にこそ

 

『差別』というものの根本が存在するのではないだろうか

 

 

我々はいかなる『他者』をも虐げるべきではないし

 

逆にいかなる『他者』にも虐げられるべきではない

 

それは『性差』、『民族』、『人種』、あらゆる『違い』においてもだ

 

そうした『差別』を無くしていくうえで

 

我々は『差別しない』ことだけを命題にして

 

「意図」せず含まれた『発言』を「狩る」のではなく

 

むしろ自らの内にある『差別意識』をきちんと受け入れた上で

 

その「表裏」にある『共通項』にこそ光を当てて

 

「同じであるべき」とみなすのではなく

 

「違いがあってしかるべき」ことを理解し

 

だからこそ「脅威ではない」と知ることこそが

 

『人種差別』を始めとする、あらゆる差別を根絶していくための

 

ある一つの「ヒント」なのかもしれない