ひよこねこ

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『教育の難しさ』と『情報伝聞の危険性』について考えてみる

 

中田敦彦YouTube大学』をご存知だろうか?

 

オリエンタルラジオ』の『あっちゃん』こと『中田敦彦』の運営する

 

『教育系YouTubeチャンネル』である

 

 

「大学」といっても、実際に校舎や高度な教育設備があるわけではなく

 

「講師『中田敦彦』」が「ホワイトボード」を使って

 

一般公募の数名の「生徒」たちの前で授業をする、という形式の動画であり

 

(「生徒」の姿が画面に映ることはない)

 

書籍を参考にした授業は、さながら『大学の講義』のような豊富な情報量で

 

講師である『あっちゃん』の軽妙かつユーモアを交えた講義は

 

一般的な『退屈な授業』よりずっと面白く、解りやすく

 

チャンネル登録者数は100万人を突破し

 

昨今、あらゆる「芸能人」が『YouTube』という新興メディアに参戦する中

 

他に類を見ない『大人気チャンネル』となっている

 

 

さて、そんな『YouTube大学』であるが、その大人気チャンネルをめぐって

 

(大人気であるがゆえ、に)

 

様々な論争が巻き起こり、一部で『炎上』し、あるいは過去に何度か『炎上した』

 

というのをご存知だろうか?

 

 

『炎上』といっても、多くの『炎上者』(そういう言葉が存在するかは分からない)の

 

感情論気味の「尖った発言」や、一部の思想や慣習に「配慮のない発言」とは違い

 

その要因として挙げられるのは


「正確ではない情報が、あたかも真実であるかのように述べられている」という

 

やや毛色の違った(あるいは広義で見れば同じなのかもしれない)ものである

 

 

そして、この『問題』(大袈裟にその言葉を使わせていただく)を取り扱うことで

 

今回の記事は、『教育』というものの難しさや、『情報伝聞の危険性』について

 

考えてみようと思う

 

 

まず最初に、僕はこのブログにこれまで『8記事』しか投稿していない身であるが

 

そんな僕でも記事を載せる上で、不特定多数の目に触れる文章を書く上で

 

気をつけていること、あるいは自分に課している『ルール』が存在する

 

一、「なるべく正確な情報を発信すること」

二、「なるべく偏りのない意見を発信すること」

三、「時事問題はなるべく扱わないこと」

 

「三」については、今日の記事を書く時点ですでに破っていることになる

 

そして、「一」と「二」についても、自分なりに気をつけてはきたつもりだが

 

完全に守られているとは、やはり言い難いだろう

 

それでも、なぜそのようなルールを課しているのかというと

 

それは「なるべく不用意に他人を怒らせたり、傷つけたりしたくないから」だ

 

「一」については、嘘の情報が他人の不利益になることがある

「二」については、偏った意見は一方の意見を否定することになる

「三」については、問題が沈静化しない内は感情論に走りやすく

         当事者双方の意見や事実を十分に揃えることが困難である

 

以上の理由から、僕は『なるべく』そのルールを守って記事をまとめてきたつもりだ

 

 

なぜ僕がここでそんな、この記事の表題から脱線したような

 

『自分ルール』を述べたのかというと

 

それは決してこの記事の内容とは無関係ではなく、むしろ今回の論点において

 

あるいは「最重要」なものであるからだ

 

そして、僕が『自分ルール』を語る上で自己弁護的に、あるいは言い訳的に

 

『なるべく』という曖昧で漠然とした「努力目標」を多用したことにお気づきだろう

 

 

中田敦彦』さんは授業の中、あるいは動画の中で

 

特にセンシティブな内容、おもに多様な『歴史認識』のある内容を扱うとき

 

その授業の冒頭で必ず言っている

 

「正しいとか間違っているとかではなく、あくまで『知る』きっかけとなれば」

 

彼は言う

 

「自分はただ『真実』を言うだけで、それからどう考えるかは『自由』だ」と

 

その言葉に、僕は彼のその「授業」あるいは「チャンネル」自体への

 

彼自身の考えや思いが簡潔に込められているのだと考える

 

つまり「自分はある特定の偏った意見を押し付けるつもりはない」

 

「なるべく正確な情報、あるいはそれに近い情報を共有し」

 

「そこから先はそれぞれが議論し、自分なりの意見を持つことが大事なのだ」と

 

そして、そこには『教育』というものの本質が詰まっていると思う

 

 

「教育とは何か?」

 

それについて考えるのは、とても難しい

 

「教え育む」とは言葉の意味そのままだが

 

そもそも「『教える』とは何か?」「『育む』とは何か?」

 

そこに単純明快な解答が見つかるのなら、誰も子育てに悩んだりはしない

 

だからこそ『教育者』は『学習者』と共に日々成長し、育まれなくてはならない

 

そして、何かを『教える』とき、『教える側』が最も気を遣わなくてはならないのが

 

「自分の考えを押し付けすぎない」ということだ

 

それをしてしまうと『教育』ではなく、『洗脳』になってしまう

 

言葉でいうのは簡単だが、それを実践するのはとても難しい

 

何か客観的な『事実』を述べるとき、そこに主観は混じっていないだろうか?

 

仮に思想の全く介在しない教育があるとして

 

果たしてそれは『教育』と呼べるのだろうか?

 

 

教育とは、人から人へ与えられるものである以上

 

どうしたってそこには『認識』から生まれる無意識化の『思想』が含まれる

 

そしてその『思想』こそが、あるいは『学び』において重要な意味を持つこともある

 

 

例えば、「人はなぜ歴史を学ぶのか?」という問いに対して

 

「過去の過ちを繰り返さないため」という、いかにもな『正論』が存在する

 

だが、その考え自体が『思想』であり

 

だとすれば、ただ『知識』として歴史を知っていればいいのか、というと

 

それではただテストの点を稼ぐだけの空虚なものになってしまう

 

ならば、やはり『歴史的事実』に意見や認識を与えるというのは

 

『教育』にとっては不可欠なものであり

 

そこに「あくまで参考として」教育者の意見、世間一般的な意見を付随したとして

 

それは「不要なもの」として割り切れるのだろうか?

 

あとは「『生徒』自身が考えるべきもの」として

 

果たして、自ら真剣に考え「自分なりの答え」を見出せる者がどれくらいいるだろう

 

 

だからこそ、『教育』というのは難しく

 

そこでは『教育者』のみならず『学習者』が

 

(便宜上そういった使いわけをしているが、それらは相対性を持つ)

 

不断の努力をもって、これを成し遂げなければならないのだ

 

 

だが果たして、『中田敦彦YouTube大学』を視聴した者の一体どれだけが

 

その『不断の努力』、換言すると『普段の努力』を行うことができるだろう

 

「ある『歴史的事実』を知り、それを双方向から検証する」

 

それには多くの情報を収集する必要に迫られる

 

彼の語る『事実』が『真実』だとして、その根拠はどこにあるのか?

 

あるいは、彼の語る『事実』が『虚偽』であるとして、その根拠はどこにあるのか?

 

それを検証するには、実に多くの情報を収集し、時に様々な書物を読み漁る必要がある

 

果たして、そんな面倒くさい事を

 

彼の動画の視聴者の、一体どれだけがする事ができるだろう

 

 

人間はどうしたって『解りやすく』

 

自分の耳に『聞き馴染みの良い』情報ばかりを収集する癖がある

 

そして一旦受け入れた情報を疑うことは、そう簡単にはできない

 

なぜなら、そこには『学習した』という自負が伴うからである

 

それがYouTubeの動画であれ、それなりに時間を要した

 

あるいは自分の利害とは全く無関係なものであるなら尚更である

 

そして、そこには『情報伝聞の危険性』という、もう一つの論点も大いに関わってくる

 

 

ここで、この記事の冒頭の文章を読み返してみてほしい

 

僕としてはあくまで『前置き』として

 

今回の論点である「教育の難しさ」と「情報伝聞の危険性」を語る上で

 

導入部分として、さしたる『正確性』もなく

 

かといって『思想』や『偏見』はないつもりで書いた『つもり』だ

 

だが、仮に「中田敦彦」さんがこの記事の冒頭を読んだとして

 

あるいは彼のファン、彼のチャンネルを全て視聴している方が読んだとして

 

一体どれだけの『正確ではない情報』が含まれていることだろう

 

 

例えば、僕なりに考えてみたとして

 

まず「チャンネル登録者数100万人」という情報すら正確なものではない

 

僕が彼のチャンネルを毎日楽しみに観ていた頃

 

何かの動画で、彼が「チャンネル登録者数100万人を突破しました!」と言っていた

 

ということは、今現在その登録者数はそれ以上ということになる

 

(減っているというのは考えにくい)

 

110万人か、120万人か、あるいはすでに200万人を超えているかもしれない

 

仮に130万人とすれば、僕の述べた情報は概算では合っているとはいえ

 

彼のチャンネルを応援している方からすれば

 

「100万人なんて、とっくに超えてるよ!」ということになる

 

そして、もし仮に登録者数が200万人を超えていたならば

 

僕の述べた情報は古い情報であり、正確性を持たないものとなってしまう

 

だが僕としては、あくまで「登録者数の多いチャンネル」という情報こそ

 

肝要なものであり

 

そこに登録者数を過小に見積る意思はなかったのだ

 

だが、あるいは他の『YouTuber』のチャンネルを登録している方にとっては

 

「誰より多い」とか「誰より少ない」という、誤った情報を与えてしまったことになる

 

そして「『中田敦彦』の運営する」という情報も

 

あるいは彼自身に言わせれば正しくないのかもしれない

 

「いや、俺だけの力じゃないし」という反論も容易に予測できる

 

そして、彼のチャンネルについて『僕なり』に簡単に説明した『つもり』の文章も

 

それは完全に僕の主観であり、事実とは異なるのかもしれない

 

 

まるで「重箱の隅をつつく」ようなことであるが

 

だが当事者やそれに近い者から言わせれば、れっきとした『間違った認識』である

 

それでも、仮に彼の動画を一度も視聴したことのない方にとっては

 

僕の述べた情報があたかも『事実』であるかのような

 

そうでなくてもそれに近いものであるかのような『誤解』を与えるだろう

 

それこそが『情報伝聞の危険性』である

 

 

『誤った情報伝聞』の原因については、大きく分けて以下の三点が考えられる

 

一、「そもそも間違った認識している」

二、「認識自体は正しいがその伝え方を間違っている」

三、「そもそも認識をしていない」

 

以下に例を挙げる

 

「Aは不倫をしている。不倫相手はBであり、週末は必ずBに会いに行っている」

↑これをXが報道したとしよう

 

この報道をするにあたって、Xが収集した客観的事実は以下のものであるとする

「Aの仕事は土日が定休日である」

「Aは週に一、二回はBと会っている」

「Aは不倫をしているかもしれない」

 

さてここで論理的、数学的に『報道』とXの収集した『事実』を照らし合わせてみよう

 

まず「Aの仕事は土日が定休日である」、これは確かな事実である

 

だからこそXは予想した、「きっと休みである週末にBに会っているに違いない」と

 

これは「一」の『間違った認識』にあたる

 

なぜならば「休みである週末に」というのはXの主観であり

 

「どうせなら時間のある休日を逢瀬の機会に選ぶだろう」というのは

 

あくまでXがその当事者である場合においてのみ有効であり

 

Aの思考や行動原理を反映しているとはいえない

 

Aは、たまたま「火曜」と「木曜」は仕事が早上がりで

 

だからこそBの元へ通うのであり、「土日」はむしろ家族サービスに専念している

 

そしてその事実を知ると、「不倫をしている」という事実は消せないまでも

 

それなりに「家族を大切にしている」というまた一つの事実が浮かび上がってくる

 

 

次に「Aは週に一、二回はBと会っている」、これもれっきとした事実であるとする

 

だが報道においては、やはりその回数が多いに越したことはない

 

だからこそ、「週によっては一回」であるにも関わらず

 

あたかも「必ず週末(週に二回)はBに会っている」と報道する

 

これが「二」の「認識自体は正しいがその伝え方を間違っている」にあたる

 

あるいは「週末」という言葉をXが使う上で

 

必ずしもその両日を指しているわけではないのかもしれない

 

けれど、情報を受け取った側はそうは考えない

 

きっと「貴重な休日を家族ではなく、不倫相手のBに捧げている」と考えることだろう

 

 

だがそもそも、「不倫をしている」時点で週に一回だろうが二回だろうが

 

週末だろうが平日だろうが、その罪の重さに大差はない、と思われるかもしれない

 

それについて「Aは不倫をしているかもしれない」だ

 

Aはあくまで「不倫をしていると疑われているだけ」

 

つまりその事実はなかったものだとする

 

だが『状況証拠』という言葉があるように

 

「Bに会いに行っている」という事実があったとする

 

そしてBが年齢の近い、あるいはそれなりに「若い異性」であったとするならば

 

そこに不倫の疑いを持つことは容易であろう

 

だが、Aはただ単に「別の理由」をもってBに会いに行っているのだとする

 

そもそも『李下に冠を正さず』という諺にあるように

 

「疑わしき行いをするべきではない」という考えがあるのは勿論として

 

それでもAは「止むを得ない事情」によって、Bと会っているのかもしれない

 

そして「止むを得ない事情」というのは

 

AあるいはB以外の者には想像し得ないものであるかもしれない

 

それでもやはり、AとBにとっては「不倫」などという考えなどなかったとして

 

にもかかわらずXはそれを「不倫」と誤解し、あたかも真実であるかのように伝聞する

 

それが「三」の「そもそも認識をしていない」

 

つまり報道が当事者に与える『影響』を認識せず

 

その報道に関わる『誤解』を認識していない、ということになる

 

 

以上の例は、あくまで『報道者』あるいは『記者』について述べたものであるが

 

そうではない『個人』についても

 

自分では意図せずとも、「間違った認識」あるいは「都合よく簡略化された認識」を

 

『事実』として取り扱ってはいないだろうか

 

数値の簡略化は、情報を的確に認識する上では時に必要である

 

99.9%は、ほぼ100%として理解することは間違っていない

 

だが、そこに含まれる0.1%の可能性、あるいはリスクを全く認識しないのでは

 

やはり事実を往々にして捻じ曲げていることになりかねない

 

だからこそ、『情報』の取り扱いにおいては

 

『発信者』についても、最大限の配慮が必要であるが

 

『受信者』においても、それなりの検証必要性が求められるのだ

 

 

だからこそ、『中田敦彦YouTube大学』を視聴する上で

 

我々は、より多様な情報を収集し

 

ただ『知る』だけではなく、その事実について検証していくことが

 

あるいは形としては『炎上』であっても、それぞれに議論していくことが

 

真の意味での『学び』であり、『勉強』であるのかもしれない

 

『あっちゃん』はYouTubeを通して

 

僕らにそれを『教えて』くれているのかもしれない