ひよこねこ

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未来に『本』は無くなるのか?

 

人類は文明の発達と共に、これまで数々の『発明品』を手に入れてきた

 

旧くは土器、鉄器などに始まり、蒸気機関、電気など

 

『火』こそ、人類最大の発明だという呼び声も高いけれど

 

新たな発明、発見というものは生活を豊かにする反面

 

使い方を誤れば、我々に計り知れない不利益と損害をもたらすこともある

 

 

…と、そんな話はとりあえず置いておくことにして

 

『コンピュータ』あるいは『インターネット』の発明は

 

現代に生きる我々にとって、今や生活に欠かすことのできない

 

最高の『発明品』であり、今や生活に欠かすことのできないものだ

 

 

新しい何かが発明され、それが広く知れ渡り使われるようになると

 

それと共に、古い何かが人知れず姿を消してゆく

 

携帯電話が普及し、公衆電話が街頭から姿を消したように

 

蛍光灯が発明され、白熱電球が淘汰されたように

 

そして今や、その蛍光灯の多くもLED型へと移行している

 

 

あらゆる『発明品』の凄いところは、それによって訪れる新しい時代の到来を

 

多くの者が予期できず、それによってこれまで当たり前に使っていた物が

 

まさか無くなってしまうなんて、誰も想像すらしていないことだ

 

 

例えば、コミュニケーションツール一つを取ってみても

 

かつて『メール』というものが隆盛を誇った時代があった

 

それは僕が中高生だった頃の事で

 

当時は『電話』に代わる、より簡易的で便利なツールであり

 

新しい文明の利器は、瞬く間に時代を席巻した

 

文字数の制限が大幅に引き上げられ

 

メールで写真を送ることのできる『写メール』というものに

 

時代の進化と人類の進歩というものを実感したものだった

 

 

とはいえ、『電話』というものが消えることはなかったし

 

『メール』と『電話』との住み分けは当時からもできていたし

 

まさか、そのわずか十年後に『Eメール』に代わる

 

新たなコミュニケーションツールである『LINE』が

 

中高生を中心に流行り始めるなんて、一体だれが予想しただろうか?

 

 

もちろん、時代が変わっても残り続けるものはある

 

『電話』がそうであるように、『メール』もまたビジネスの場面では

 

形と用途を変えながら、いまだに残り続けている

 

 

「時代が変わっても残り続ける物」

 

その要因としては様々なものがあげられるが

 

一つには『伝統』というものがあるだろう

 

伝統とは、ある種の利便性を排除しても残すべきもの

 

あるいは他に代替できない『価値』を持ち続けているものである

 

その一つとして、人類の歴史において燦然と輝く

 

まさに『文明』の象徴、人類の『叡智』の具現化と呼べるものが

 

『本』あるいは『書物』である

 

 

『本』の歴史というものは計り知れない

 

人類最古の『本』というのが、何であるかは不明だが

 

活版印刷』が発明され、今の『出版』という形態がおよそ確立されてからも

 

その歴史はゆうに百年を超える

 

それは、近代の文明の発達スピードからすると、まさに驚異的な生存力である

 

 

人類が『文字』というものを発明したのは、およそ数千年前のことであるが

 

当時の文字というのは、石板などに代表される頑強で形の変わらない物質に

 

刻まれる、スタイルであった

 

『紙』というそれよりはずっと柔らかで、長年の風化には耐えつつも

 

けれど、もちろん『石』などとは比べ物にならない耐久性の低い物質に

 

書かれる、というスタイルになってからも

 

その歴史はすでに数百年を経過している

 

やがて、『データ』という形を持たない情報の蓄積ツールが登場し

 

より簡易的に情報を『保存』『閲覧』することが可能になった

 

 

では、『本』というものはこの先消えてしまう文明なのだろうか?

 

あるいは何かに代替され、別の何かにその確固たる座を奪われてしまうのだろうか?

 

皆さんはどうだろうか?数年、あるいは数十年先の未来

 

『本』という存在が過去の遺物として、あくまで『遺跡』的な価値は保ちつつも

 

実用性というカテゴリからは除外されたものとして

 

その他のかつての発明品と同じく、忘れ去られていくと思うだろうか?

 

僕はそうは思わない、むしろ『本』だけは

 

これから先何十年、いや何百年先も残り続けるように思う

 

今回は僕がそう考える理由と

 

「残り続けるもの」だけが持ち「消えゆくもの」が持たない要素について

 

僕なりの考えを三つ述べさせていただこうと思う

 

 

まず一つ目に、『本』という造形、その形について、だ

 

本というものを我々が重い浮かべたとき

 

その色やサイズなどは人それぞれだろうが

 

こと『厚さ』というものは、皆おおむね同じくらいではないだろうか?

 

大体、1.5センチ~3センチ

 

我々が『本』というものを思い浮かべたとき

 

そこに含まれるであろう情報量は、おおむねそのくらいを想像するのではないか?

 

ページ数にして200~400ページ程度

 

もちろん、それ以下の厚さの本もあれば、それ以上のページ数の本もあるが

 

重要なのは、そこではない

 

読書が好きな人も、嫌いな人も、本というものを想像したときに

 

皆一様に最低それくらいの情報量を想定するということだ

 

そして面白いのは、読書が嫌いな人のほうが

 

『本』というものを想像したとき、その厚さやページ数を比較的多めに考える

 

つまり、その情報量をやたらと多く、読むのが大変だと認識する傾向にあると思われる

 

そうした先入観や、ある種偏見とも受け取られる認識から得られるものは何だろう?

 

それは『書物』という道具に対する、絶対的な情報量への信頼ではないだろうか

 

 

僕自身、学生時代は読書というのが苦手だった

 

その理由として、「何か難しそう」「面白くなさそう」「面倒くさそう」

 

といった漠然としたイメージがあった

 

多くの読書嫌いが挙げる理由とほとんど同じだろう

 

だが、それらの理由こそまさに『本』というものの

 

情報量の多さと、ある種の高い専門性への『信頼』の裏返しではないだろうか

 

「専門性が高い」から「難しい」

「勉強になる」から「面白くない」

「情報量が多い」から「面倒くさい」

 

決してそうとは限らないのだけれど、一般に考えられるそうしたイメージこそが

 

『書物』を人間の叡智の権化として神格化させているのではないだろうか

 

そして、読書が嫌いな人の一部が「本くらい読まないとな」と

 

ある種の強迫観念に囚われている

 

そこには「向上心」という人類としての、あるいは生物としての本能的な欲求があり

 

その視覚化できる。「解りやすい手段」として読書があるのだ

 

そして、次に挙げる理由も、それに関連している

 

 

二つ目に、『読書』というその一連の動作における「面倒くささ」だ

 

あるいは「不便さ」、「回りくどさ」と換言してもいいかもしれない

 

『本を読む』という行為には、それなりの準備と手順が伴う

 

まず当たり前のことだが、『本』を持っていなくてはならない

 

(そりゃそうだ)

 

だが、近現代において、何か一つの娯楽

 

しかもそれがただ「読む」というだけの行動に対して

 

わざわざ事前準備が必要というのはいかがなものだろうか

 

 

暇つぶしのための娯楽ならば、我々が普段持ち歩いているスマホの中に

 

無限に内蔵されているだろうし、それこそワンクリックでアプリをダウンロードすれば

 

もうそれで簡単に、そのコンテンツを享受することが可能だ

 

それに対して(もちろん読み物のアプリなんかもあるだろうが

 

ここでは実物の『本を読む』という行為に限定する)

 

ただ一つの用途にしか使用できないものを

 

わざわざ持ち歩かなくてはならないという不便さといったらない

 

しかも、それなりに嵩張るものだし

 

当然ながら一冊の本には一冊分の情報しか含まれていない

 

それが、どれだけ時代に逆行するものであるかは考えるまでもない

 

 

だが、その『読書をする』行為の面倒くささこそ

 

『儀式』めいた読書の魅力なのではないだろうか

 

そこには、人間は『忘れる』生き物だということが大いに関係する

 

 

我々は忘れる生き物だ

 

良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、忘れてしまう

 

『喉元過ぎれば熱さを忘れる』という諺の通り

 

それは防衛本能として必須のものなのだろうが

 

それにしては社会生活、あるいはそのための『学び』において

 

覚えておかなければならないことが、あまりに多くあり過ぎる

 

そして厄介なことに、『記憶』というものは意識的に取捨選択できるものではなく

 

覚えていたいこと、つまり有益な『知識』に限って簡単に忘れてしまうことが多々ある

 

だから『勉強』と聞くと、誰もがその反復性に辟易とさせられる

 

一度では身につかず、何度も何度も反復し、そうしてようやく自分の財産となる

 

『読書』というのは、そうした人間の特性に対してまさにピッタリなツールなのだ

 

 

もちろん、読書をしたからといって、一度で知識が身に付くわけではない

 

それは、他の情報コンテンツと同じだ

 

だが、読書には他のコンテンツと大きく違った、アナログならではの蓄積がある

 

それは、読んだ本がそのままの形で『残る』ということだ

 

 

読み終えた本は、手放さない限りあなたの手元に残り続ける

 

ずっしりとした重さで、並べればそれなりに場所を取り、持ち運びはそれなりに不便だ

 

だが、その視覚化できる『蓄積』こそが、あたかも知識が増えたように『錯覚』させる

 

そう、あくまで錯覚なのだ

 

蔵書量が知識の総量でなければ、もちろん読了した本の内容が血肉となるわけでもない

 

だが、我々の不確かな『記憶』という機能において

 

目に見える『蓄積』というもののいかに心強いことだろうか

 

本はそうした、『知識の増量』のある種の比喩として機能する

 

そして、本を広げる、ページを繰る、本の匂いをかぐ

 

といった、一連の動作こそが、まさに儀式的な意味を持ち

 

『知識の蓄積』を錯覚として実感させるのではないだろうか

 

 

そして三つ目は、やや視点を変えて

 

本を読む側ではなく『書き手』としての心理について考えてみよう

 

 

そもそも『本を出す人』というのは、どういった種類の人間だろうか?

 

小説家など、本を書くことを生業にしている者は別として

 

学者や評論家など、自分の研究の成果や主張などを発表するとき

 

やたらと『書物』という媒体を用いる

 

もちろん、学会への発表などについては違った形式を取るだろうが

 

「世間に向けて広く発信する」という方法においては

 

必ずといっていいほど、『出版』という形が用いられる

 

そして、成功者や有名人なんかも、なぜかこぞって本を出したがる

 

他に媒体のなかった十数年前だったら、それもわかるが

 

今やネット上でいくらでも、より簡単に、低コストで情報を発信できる

 

(もちろん出版社からの働きかけなんかもあるだろうが)

 

それにしても、なぜそれだけ多くの人が本を出したがるのだろう?

 

 

『本を出す』という行為、そこにはもちろん商業的な意味合いもあるだろう

 

だがそれだけではない付加価値があるのだ

 

それは『権威』の獲得である

 

全く同じ情報だったとしても、出版とそれ以外の発信方法では

 

そこに含まれる『信頼性』が大きく異なる

 

 

思えばそれも当たり前で、『出版』にはそれなりのコストがかかる分

 

自費出版という形が取られることもあるが、多くの場合には出版社が付く

 

そして、出版社の名前は本の表紙にきちんと明記される

 

それは責任を担保するという意味でもあり

 

それなりに整合性が取れたものであるかを編集者が判断する

 

つまり、ネット上に無責任に載せられた誰のものとも分からない

 

出所不明の記事に対して『信頼性』の面で、大きくアドバンテージを取ることができる

 

 

もちろん、本からの情報だって間違っていることはある

 

だが真偽はこの際、問題ではない

 

重要なのは、本にはそれだけの『信頼性』があり

 

本を出すという行為には『権威性』があるということだ

 

 

例えば「勉強する」といって、ネットを閲覧していたとする

 

それを聞いて、多くの人は「勉強していない」と判断することだろう

 

「なんだ、『勉強する』ってのは嘘で、遊んでいるだけか」と

 

それもおかしな話だ

 

今やあらゆる情報があふれていて、何かについて詳しくなろうと思えば

 

YouTubeでそれなりの知識を得ることができる

 

だが「YouTubeを観た」と聞いて、「勉強したんだ」と思う人間は少ないだろう

 

ではそれが「本を読んだ」ならどうだろう

 

もちろん、漫画や雑誌も広義の意味では『本』だ

 

あるいは小説かもしれない

 

だが「本を読んだ」と聞けば、それが容易に「勉強」に結びつく

 

子供の頃に「本を読みなさい」とよく言われた方も多いだろう

 

それこそが『読書=勉強』というイメージであり

 

つまり本というものは、『書き手』にも『読み手』にも権威性をもたらすのだ

 

 

以上のことから、『本』は他のコンテンツには代替できない『価値』がある

 

そして、それは『人間の叡智』というものの象徴であり、視覚化なのかもしれない

 

だからこそ、利便性という理由だけでは淘汰されず

 

人間が長い歴史の中で培ってきた『本能』とは違った『習性』のようなものが

 

分厚い、その形に込められているのかもしれない