ひよこねこ

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『M-1王者』が得る、本当の副賞とは?

 

さて、前回の記事で『M-1』を始めとする賞レースの王者たちが

 

苦節の末に、その華々しい栄冠を得たにもかかわらず

 

売れない理由、あるいは「売れるとは限らない理由」について話した

 

 

多くの芸人が(例外もあるだろうが)、人気者になるために芸人を志す

 

そして芸能人における「人気者」とは、より具体的にいうならば

 

「老若男女に名前を知られている」ということだ

 

YouTubeや各種動画サイトが台頭し、今やその需要はテレビのそれを上回りつつある

 

しかし、若年層の興味が、「時間的制約」を持たない新興のメディアへと移り変わる中

 

年配層の関心はいまだに、テレビにその中心があるといって良いだろう

 

そして、長年メディアの「第一党」として時代を築いてきたテレビは

 

情報の選択権を放棄した「信者たち」を囲みこみ続けている

 

 

…と、少し話が逸れてしまったけれど

 

つまり、芸人および芸能人における人気者の定義とは

 

やはり「テレビでどれだけ見るか」ということになるだろう

 

 

近年、ネット番組なども増えてはいるが

 

個人発信のチャンネルなどは別にして

 

「番組」と名のつく、ある程度の資本が投下されているコンテンツにおいては

 

出演者は、やはりテレビでの人気を参考にしてキャスティングされていることが多い

 

そこに「ネットならでは」という、付加価値が与えられるだけで

 

やっていることも、顔触れもテレビとは大きく乖離していないように思う

 

 

では、ここで本題に戻るとすると

 

「テレビに出る」ために、芸人を志す者たちにとって

 

必ずしも「安定的出演権」につながるとは限らない賞レースに

 

参加する価値はあるのだろうか?

 

 

前回の記事でも述べたように、その答えは「間違いなくある」だ

 

別にそれは、芸を磨くことに損得勘定を持ち込むべきではない、とか

 

お客さんの笑顔それこそが最高の報酬なのだ、とか

 

そういった精神的、観念的理由から言っているのではない

 

あくまで、もっと即物的に、もっと実質的な理由としてだ

 

 

栄えある、お笑いトーナメントの覇者たちは

  

賞金やトロフィーの他にもう一つ、今後の芸人生活によって最も大切なものを手にする

 

それは「面白い人」というイメージだ

 

 

なんだそれだけか、そんなことは誰でもわかっている、と思われるかもしれない

 

だが、この「面白い人」というイメージこそが

 

「優しい人」とか「強い人」とか「清純そう」だとか

 

世間一般にはびこる他のイメージとは一線を画す、強力な武器となり得るのだ

 

それについて少し説明する

 

 

前者と後者三つのイメージとの大きな違いは何か?

 

それは「イメージの逆転」、つまり「裏切られる可能性」だ

 

いや、その言い方は適切ではない

 

より正確にいうならば、「そのイメージが裏切られることへの期待」だ

 

 

小説や漫画、物語性を持つあらゆる創作物、いわばフィクションにおいて

 

「イメージの逆転」と呼べるものは、かなりの確率で起きる

 

「コイツ、めちゃくちゃ嫌な奴だな」という人物が

 

主人公のピンチの際には颯爽と現れ、カッコいい台詞と共に窮地を救ってみせる

 

反対に、めちゃくちゃ人の好さそうな細目キャラが

 

実は真の黒幕であり、開眼をきっかけに悪逆を露呈する

 

強面の大佐が「俺のズボンがアイス食っちまった」などと、おどけた一面を見せたり

 

いかにもな筋肉ムキムキの大男は真っ先にやられたり、と

 

たとえをあげればキリがなく、そのイメージの逆転がそのまま物語の展開となり

 

時には起承転結における、重大な「転」としての役目を担う

 

 

それらはフィクションの中での出来事だ、と思われるかもしれない

 

しかし、我々はノンフィクション、つまり現実においても

 

「イメージの逆転」を無意識のうちに期待してはいないだろうか?

 

清純派アイドルの密会報道や、好感度の高い芸能人の不倫報道が

 

より加熱的に扱われるのはなぜか?

 

その一つの理由として、我々が心のどこかで「イメージの崩れる瞬間」を

 

少なからず期待しているからだろう

 

そして、「イメージの逆転」は必ずしも、悪転換ばかりを期待するものではない

 

 

たとえば、異種格闘技の大会が行われたとする

 

ボクサー、空手家、柔道家、プロレスラーなど

 

筋骨隆々の、たくましい青年たちが続々と出場する中

 

ふと一人の合気道の達人の参加が決まったとする

 

他の出場者が、まさに現役世代と呼べる脂の乗りきった若者たちである中

 

その達人は見たところただの老人であり、痩身矮躯で

 

どう見ても強そうには思えない

 

ところが、いざ大会に出場すると…

 

 

この「ところが」こそ、まさにイメージの逆転を期待する内なる声なのだ

 

誰も、達人があっけなく倒されてしまう展開など望んではいない


(しかし、そう簡単に「イメージの逆転」が起きないのもまた現実である)

 

 

以上のことから、我々はやはり無意識的にも意識的にも「イメージの逆転」を渇望し

 

むしろ、それが起きて当たり前だろうと思いこんでいる節がある

 

本当は「イメージ」というものについて、まだまだ語るべき内容が沢山あるのだが

 

本題から逸れてしまっているので、それについてはまたいつかの記事で語ることにする

 

話を芸人に戻そう

 

 

では、同じくイメージであるはずの「面白い人」というイメージだけ

 

どうして逆転を期待されないのか?

 

それについては、我々が無意識の内に「つまらない展開」を排斥する傾向にあるからだ

 

「強い人」⇔「弱い人」

「怖い人」⇔「優しい人」

「敵」⇔「味方」

 

多くの物語的展開についてもわかるように、それらはどっちに逆転しても

 

興奮や感動を得ることができる、これを便宜上「ギャップカタルシス」と呼ぶ

 

「⇔」からも分かるように、上記の例においては双方向的、どちらの変化においても

 

ギャップカタルシスを得ることができる

 

 

「面白い人」 「つまらない人」

 

では、この場合どうだろう?

 

「つまらない人」が実は「面白い人」、これについては問題ないだろう

 

『スベリ芸』なんかも広い意味では、ここに分類される

 

(本当はもっと高度なことをやっているのだが、ここでは語らない)

 

では逆に「面白い人」が「つまらない人」というのは?

 

確かに、普段は安定感のある芸人が時にすべってしまい

 

それが笑いにつながる、という展開もあるだろう

 

しかし、それはあくまでその展開、一度きりのことである

 

その証拠に、すべった芸人は次の展開においては

 

やはり「面白い人」に立ち位置を戻している

 

つまり、我々は容易にはその「イメージの逆転」を認めようとはしないのだ

 

そして、「面白い人」と「つまらない人」との間にある逆転の矢印は

 

いつだって「つまらない人」→「面白い人」であるべきで、逆を望んではいない

 

だからこそ、一度「面白い人」というイメージを得ることは不可逆の価値を持つ

 

 

芸人に限らず、表現者として人前に立つ者たちのイメージは

 

最初はゼロ、つまり未認識から始まる

 

そして認識された瞬間、まずは第一印象で暫定的な価値が付与される

 

だが、その価値は容易に逆転可能なものだ

 

そして出番を終えて、そこでより確定的な価値へと収束する

 

だが、それについてもやはり挽回と返上の可能性は等しく与えられる

 

あくまで観測者が毎回公平性を保っていられれば、の話だが

 

 

ここでよく考えてほしいのは、我々は常に公平さを保っていられるわけではなく

 

常に「直接的」に観測しているわけでもない、という点だ

 

我々はしばしば事前情報に左右される生物だし

 

「間接的」に得た情報を、あたかも「直接的」に受け取った事実と思いこむ

 

そして、それ自体は何ら悪いことではなく、むしろ生きていく上で必須の技術だ

 

それが、自分の志や生き方に関わる重大な事項であるならまだしも

 

ただの娯楽である鑑賞に、いちいち主観性と公平性を保とうとすると身が持たない

 

だから我々は、間接的情報をとりあえず、暫定的に受け入れることにするのだ

 

 

何気なくテレビをつけると、ちょうどバラエティ番組が始まったところだったとする

 

MCは見慣れたベテラン芸人、彼らのネタを見た経験はない

 

どんな漫才やコントで人を笑かし、どんな経緯を辿って今の位置にいるのかは知らない

 

だが彼らが「面白い」のは知っている

 

番組内容にもよるが、とりあえずこのまま観てみよう

 

つまらなかったらチャンネルを変えればいい

 

ゲストは若手芸人たち、ネタを見たことがあるのは二、三組だが

 

名前だけならほとんど知っている

 

きっと楽しい展開が待っているだろう、と半信半疑ながらも期待する

 

それがイメージというものの魔力であり、名前を知られていることの強みだ

 

 

そして、ことお笑いにおいて、そのイメージが大事だというのは

 

「笑い」というものの繊細さ、不確定要素の多さにも起因する

 

 

たとえば、素人が『すべらない話』にポッと出で出演したとする

 

名の知れた芸人が周りを取り囲む中、渾身の『すべらない話』を披露したとする

 

(自分がその「素人」だとするとどうだろう?僕なら震える…)

 

ウケるかもしれない、けれど多くの場合はスベるだろう

 

緊張のせいもあるだろう、間のとり方や声のトーン、話の展開のさせ方

 

そういった数々の複合的要素が積み重なり

 

『すべらない(はずの)話』が超電導を引き起こす

 

 

では次に、その番組の猛者たちである『千原ジュニア』や『小藪一豊』に力を借りる

 

彼らの話、まだテレビで一度も話したことのない話を譲り受け

 

その上、イタコか何かの力を使って、生霊である彼らを憑依させ

 

口調、声のトーン、間のとり方などをそっくりそのまま再現したとする

 

だがそれだと「ものまね」になってしまい

 

それでは別の笑いが起きる可能性があるので

 

何らかの大規模な科学技術を使って、視聴者の記憶からお二人の記憶を

 

丸ごと消してしまうことにする

 

果たしてその話はウケるだろうか?

 

そこまですれば、確かにウケることはウケるだろう

 

しかし、その笑いの大きさは本人が話した時と同じだろうか?

 

そんなものは比べようがない

 

それでも、やはり目盛幾分か落ちるだろう

 

その違いは何か、それは話し始めた時の期待度の違いだ

 

「ジュニアの周りには、きっとおかしな人たちがたくさんいることだろう」

「小藪はきっとまた、どうでもいいことに重箱の隅を突くような怒り方をするだろう」

 

という期待、その期待感こそが笑いにおいて重要なフックとなり得るのだ

 

「知っている」ということの安心感、そこから生まれる手放しの期待感

 

前者の素人が、職場で学校で同じ話をしたとする

 

きっとその話は大いに笑いを取ることができるだろう

 

それもまた、聞き手が彼ないしはあなたを「知っている」からこそだ

 

 

我々は「イメージの逆転」つまり「まさかの展開」を期待すると同時に

 

「予定調和」を望んでいる

 

それらは矛盾しているようで、恣意的な感情が介在しているという点では同義だ

 

 

賞レースの王者の真の副賞とは

 

世間一般に対する「面白い人」という暫定的なイメージである

 

だが忘れてはならないのは、そのイメージはあくまで「暫定的」なものであり

 

視聴者が望むならば、その天秤はいかようにも「面白い展開」へと傾くことになる