ひよこねこ

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あなたの『サーヴァント』のクラスは何?

 

Fate/Grand Order』略して『FGO』というゲームをご存じだろうか?

 

あるいは『Fateシリーズ』というコンテンツを知っているだろうか?

 

「『Fateシリーズ』とは、2004年発売のPCゲーム

 『Fate/stay night』からはじまるシリーズ作品の総称。

 どんな願いも叶う万能の願望機「聖杯」を賭けて、過去の英雄や伝説上の存在を

 「サーヴァント」と呼ばれる使い魔として現代に召喚する

 魔術師達のバトルロイヤル「聖杯戦争」やそれに関わる人々を描く。」

(※ピクシブ百科事典 参照)

 

今回はそんな『Fate』シリーズ、その中でもサーヴァントについての話だ

 

 

皆さんは、こんな妄想にふけったことはないだろうか?

 

「もし自分がその物語の登場人物だったならば、どんな能力が与えられるだろう?」

 

古今東西あらゆるバトル系のアニメには、それぞれ異能の力というものが与えれている

 

時にそれは『実』であったり、『剣』であったり、『霊体』であったり

 

我々の暮らす現実に存在する、「物理的法則」を曲げる能力である

 

 

そしてもちろん、そうした『能力』は『バトル』において強力な武器となる

 

そんな『異能力』に憧憬を抱いたり、「もし自分だったら…」と

 

能力の発現について、あるいはそれをどう用いるかについて

 

友人と熱い議論を交わしたり、時にはあらゆる創作物の「良い所取り」の『最強』を

 

個人的にノートにまとめたりしたことはないだろうか?

 

 

『能力』といってもその種類は実に様々で

 

強いものもあれば、一見そうでもないように思えるものまで

 

優劣や序列のようなものが存在する

 

傾向としては、主人公のそれは大抵の場合は脆弱なもので

 

けれど成長の過程で、あるいは補正のようなものが加わり

 

実は「最強」へと昇華する

 

物語の後半に登場するキャラクターのほうが、強い能力を手にしている

 

主人公の父親やそれにあたる人物は、もはや能力関係なしに強い、など

 

創作物であるがゆえの、「後出しじゃんけん」的構造なのは否めずとも

 

やはり、より強い能力、より便利な力にその人気は集中する

 

小学生の頃なんかは、誰がどの能力を持つかで取り合いになり

 

能力関係なしの武力や発言力によって、下位の能力に甘んじた方もいるだろう

 

 

先日、友人との何気ない会話の中でこんな問題が提起された

 

「もし自分が『サーヴァント』だったら、そのクラスは何か?」

 

 

ここで『Fateシリーズ』をご存知ない方のために簡単に説明をさせていただくと

 

『サーヴァント』とは「使い魔」のことであり

 

魔術師それぞれが召喚し、契約を結ぶことで『マスター』となる

 

 

と、これだけでは何を言っているのか分からないと思うので追記すると

 

要は『サーヴァント』とは『英霊』を現代あるいは、指定の時代に召喚したもので

 

我々のよく知る歴史上の『偉人』や、実在の不確かな創作上の『英雄』

 

果ては神話上の『神』に至るまで、あらゆる『英霊』を

 

『聖杯』の莫大なリソースを用いて、呼び出したものである

 

 

『サーヴァント』にはそれぞれ『クラス』というものが与えられ

 

それは当初『Fate/stay night』においては

 

『セイバー』剣士

『アーチャー』弓兵

『ランサー』槍兵

『ライダー』騎兵

『キャスター』魔術師

『アサシン』暗殺者

バーサーカー』狂戦士

 

の七クラスのみだったが、その後のシリーズで『エクストラ・クラス』として

 

『アヴェンジャー』復讐者

『ルーラー』裁定者

『セイヴァー』救世主

アルターエゴ』別人格

『シールダー』盾兵

フォーリナー』降臨者

 

など(他にもある)が追加された

 

それらのクラスは基本的に「じゃんけん」のような弱点関係になっていて

 

『セイバー』は『ランサー』に強く『アーチャー』に弱い

『ライダー』は『キャスター』に強く『アサシン』に弱い

 

のような構造になっている

 

アニメにおいては一見してあまり関係のないように思える要素だったが

 

ゲームにおいては「戦略性」について重要な鍵を握るファクターとなった

 

 

『マスター』は主にその『サーヴァント』を使役し、敵と戦う

 

例えるならば(創作物を他の創作物で例えるのは、やや気が引けるが…)

 

ポケットモンスター』のような形だ

 

 

他にも重要な要素として『サーヴァント』の必殺技に相当する

 

『宝具』と呼ばれるものがあるけれど、それについては割愛させていただく

 

 

そして、上記の議論は「自分ならどんな『サーヴァント』を使役したいか?」ではなく

 

「自分がもし『サーヴァント』だったら?」という問いかけなのだ

 

つまり「自分が『サーヴァント』として召喚されたなら、そのクラスは何なのか?」

 

いわば自分に備わる「能力」というより

 

自分というそれ自体の「能力」についての言及なのだ

 

 

もちろん、自分は「偉人」でなければ、「英雄」でもない

 

そんな自分が『英霊』として召喚されることがないのは分かっているし

 

もし万が一にも自分を呼び出してしまった『マスター』がいたとするならば

 

(基本的に『マスター』は一体の『サーヴァント』を使役する)

 

憐憫の情を禁じ得ない

 

それほどまでに弱く、何の戦闘手段も持たない自分であるが

 

そこはまあ、潜在的な何かと創作的補正が多分に加わると仮定して

 

まずは、自分の『サーヴァント』としての『クラス』について考えてみることにした

 

 

パッと思いつきで考えたのは、僕が剣道有段者であるということだ

 

とはいっても、それは学生時代のことであり、今や竹刀を握る機会も全くなく

 

現役時代に輝かしい戦歴を誇ったわけでもない

 

ただ部活の一つとしてやっていただけの事であり

 

剣の道を志した記憶が微かにはあるが、それもまた一時の気まぐれのようなものだった

 

それでも、より単純な「強さ」というものに対しての憧れは、今でも少なからずあって

 

たまに人気のない夜道で閉じた傘を持っていると、それを『宝具』に見立てて

 

振り回してみたり、突いてみたり、果てには小声で技名を言ってみたりする

 

(ちなみに僕の傘の名前は『乖離剣エア』)

 

そういう意味では『セイバー』として召喚されるのは

 

僕としてもまあ納得というか、それなりに「理想」に近いものである

 

 

だが、もう少し冷静になって考えてみると、その答えは違うことに思い当たる

 

(そもそも自分が『サーヴァント』などという妄想の時点で冷静ではないのだが…)

 

それは僕が何かと「配達」の仕事ばかりやっていたことに起因する

 

新聞配達、弁当の宅配、と僕の人生における仕事はそのほとんどが「配達員」なのだ

 

つまり、僕にふさわしいクラスは今のところ『ライダー』ということになる

 

 

だが、僕にはそれがいささか不満なのだ

 

別に運転や車が好きで、配達の仕事をしているわけではない

 

何となく成り行き上で、とくに選んだわけでもなく、気がつけばその仕事を続けていた

 

あるいは多くの人がそうであるように、生活の糧としての仕事に

 

多少の好き嫌いはあれど、そこに得意不得意や趣味の介在する余地は少ない

 

だが気がつくと、僕は少なくとも趣味で始めた「剣道」より

 

今のところ人生における長い時間を「配達」に費やしている

 

だとしたら、客観的に見て僕は「剣士」ではなく

 

「騎兵」とも呼べない「乗り物使い」である

 

 

いや、『ライダー』って!!

 

もちろん『ライダー』のクラスにだって魅力的な『サーヴァント』は沢山いる

 

強力な『固有結界』(これもまた専門用語だが、その説明は省く)を使う

 

豪快で、思わず臣下として付き従いたくなるような「王」だっている

 

 

だが僕としてはやはり、あるいは多くの中高生男子も同意見かもしれないが

 

何かこう一聴して「強い」とわかるような、腕一本で道を切り開いていくような

 

より単純な『能力』や『クラス』の方が良いのである

 

そういった意味では『ライダー』よりは『アサシン』

 

あるいは響きの格好いい『アヴェンジャー』や

 

ちょっと手の付けられない感じのする『バーサーカー』がより「理想的」なのだ

 

 

だが、そこである疑問に思い当たる

 

それは「他の『サーヴァント』たちは、果たして自分のクラスに満足しているのか?」

 

という当然の疑問だ

 

僕自身がそうであったように、ましてや後世に語り継がれるような偉人たちである

 

果たして自分の為した『偉業』や『神話』が本人たちの意図するものであったのか

 

「本当はそんなはずではなかった」とか「そんなつもりはなかった」みたいなことが

 

あるのではないだろうか?

 

 

例えば日本史上もっとも著名で、人気のある偉人の一人である『織田信長』は

 

『アヴェンジャー』のクラスで召喚されている

 

それは、信長の最期としてあまりに有名な『本能寺の変』をピックアップされ

 

『復讐者』としてのクラスが与えられたのではないだろうか?

 

それまでに為した偉業とはあるいは無関係に

 

その生涯を終えるとき、彼の胸中にあった感情は知る由もない

 

もしかすると『明智光秀』に対する復讐の怨念が渦巻いていたのかもしれないし

 

あるいは傍若無人とされる自分の最期として、当然の最期だと思ったのかもしれない

 

だが、我々が『織田信長』を思い浮かべたとき

 

そのエピソードとして、二、三番目に出てくるのが『本能寺の変』であり

 

家臣に裏切られるという最期が、まるで彼自身の生涯を象徴しているように感じる

 

そして『織田信長』が『アヴェンジャー』として顕現することに

 

「まあそういう解釈もありかな」という具合に思ってしまう

 

真相はそうでなかったとしても、だ

 

 

『歴史は勝者が作る』ものであるが

 

その『歴史を信じ、受け継ぐ』のは後世の人間だ

 

彼らは『客観性』という自己満足の中で

 

偉人たちの行動原理を解りやすいように紐解いてゆく

 

その過程の中で、あるいは偉人たちの感情や「想い」のようなものは

 

都合よく書き換えられ、省略されていっているのではないだろうか?

 

 

歴代の王たる『権力者』たちは、その「酒池肉林」ぶりや「栄枯盛衰」の体現によって

 

『狂戦士』や『復讐者』としてのクラスを与えられつつも

 

本当は『裁定者』あるいは『統治者』としての名を後世に残したかったのではないか

 

晩年にいかに堕落しようとも、あるいは不慮の事故によって道を外れようとも

 

『剣士』や『槍の使い手』として名を馳せたかったのではないか

 

『救世主』たちは群衆に祭り上げられた虚像であって

 

『降臨者』としての神憑りや『別人格』としての神格化ではなく

 

あくまで一人の人間として、民たちの『盾兵』となりたかっただけではないのか

 

 

自分の望む『理想』と、他人の願う『空想』が違うように

 

『主観』と『客観』は異なり、けれどしばしば『客観』のほうが重宝される

 

我々が過去の偉人たちに客観性を押しつけるならば

 

自分もまた後世の人間、あるいは現在の周囲の人間によって

 

都合よく書き換えられた『客観性』を甘受しなければならない

 

 

Fate』という作品が、それを示唆している作品だとは思わない

 

それとは関係なしに『Fate/Zero』は愉悦であり『Fate/Grand Order』は面白い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未来に『本』は無くなるのか?

 

人類は文明の発達と共に、これまで数々の『発明品』を手に入れてきた

 

旧くは土器、鉄器などに始まり、蒸気機関、電気など

 

『火』こそ、人類最大の発明だという呼び声も高いけれど

 

新たな発明、発見というものは生活を豊かにする反面

 

使い方を誤れば、我々に計り知れない不利益と損害をもたらすこともある

 

 

…と、そんな話はとりあえず置いておくことにして

 

『コンピュータ』あるいは『インターネット』の発明は

 

現代に生きる我々にとって、今や生活に欠かすことのできない

 

最高の『発明品』であり、今や生活に欠かすことのできないものだ

 

 

新しい何かが発明され、それが広く知れ渡り使われるようになると

 

それと共に、古い何かが人知れず姿を消してゆく

 

携帯電話が普及し、公衆電話が街頭から姿を消したように

 

蛍光灯が発明され、白熱電球が淘汰されたように

 

そして今や、その蛍光灯の多くもLED型へと移行している

 

 

あらゆる『発明品』の凄いところは、それによって訪れる新しい時代の到来を

 

多くの者が予期できず、それによってこれまで当たり前に使っていた物が

 

まさか無くなってしまうなんて、誰も想像すらしていないことだ

 

 

例えば、コミュニケーションツール一つを取ってみても

 

かつて『メール』というものが隆盛を誇った時代があった

 

それは僕が中高生だった頃の事で

 

当時は『電話』に代わる、より簡易的で便利なツールであり

 

新しい文明の利器は、瞬く間に時代を席巻した

 

文字数の制限が大幅に引き上げられ

 

メールで写真を送ることのできる『写メール』というものに

 

時代の進化と人類の進歩というものを実感したものだった

 

 

とはいえ、『電話』というものが消えることはなかったし

 

『メール』と『電話』との住み分けは当時からもできていたし

 

まさか、そのわずか十年後に『Eメール』に代わる

 

新たなコミュニケーションツールである『LINE』が

 

中高生を中心に流行り始めるなんて、一体だれが予想しただろうか?

 

 

もちろん、時代が変わっても残り続けるものはある

 

『電話』がそうであるように、『メール』もまたビジネスの場面では

 

形と用途を変えながら、いまだに残り続けている

 

 

「時代が変わっても残り続ける物」

 

その要因としては様々なものがあげられるが

 

一つには『伝統』というものがあるだろう

 

伝統とは、ある種の利便性を排除しても残すべきもの

 

あるいは他に代替できない『価値』を持ち続けているものである

 

その一つとして、人類の歴史において燦然と輝く

 

まさに『文明』の象徴、人類の『叡智』の具現化と呼べるものが

 

『本』あるいは『書物』である

 

 

『本』の歴史というものは計り知れない

 

人類最古の『本』というのが、何であるかは不明だが

 

活版印刷』が発明され、今の『出版』という形態がおよそ確立されてからも

 

その歴史はゆうに百年を超える

 

それは、近代の文明の発達スピードからすると、まさに驚異的な生存力である

 

 

人類が『文字』というものを発明したのは、およそ数千年前のことであるが

 

当時の文字というのは、石板などに代表される頑強で形の変わらない物質に

 

刻まれる、スタイルであった

 

『紙』というそれよりはずっと柔らかで、長年の風化には耐えつつも

 

けれど、もちろん『石』などとは比べ物にならない耐久性の低い物質に

 

書かれる、というスタイルになってからも

 

その歴史はすでに数百年を経過している

 

やがて、『データ』という形を持たない情報の蓄積ツールが登場し

 

より簡易的に情報を『保存』『閲覧』することが可能になった

 

 

では、『本』というものはこの先消えてしまう文明なのだろうか?

 

あるいは何かに代替され、別の何かにその確固たる座を奪われてしまうのだろうか?

 

皆さんはどうだろうか?数年、あるいは数十年先の未来

 

『本』という存在が過去の遺物として、あくまで『遺跡』的な価値は保ちつつも

 

実用性というカテゴリからは除外されたものとして

 

その他のかつての発明品と同じく、忘れ去られていくと思うだろうか?

 

僕はそうは思わない、むしろ『本』だけは

 

これから先何十年、いや何百年先も残り続けるように思う

 

今回は僕がそう考える理由と

 

「残り続けるもの」だけが持ち「消えゆくもの」が持たない要素について

 

僕なりの考えを三つ述べさせていただこうと思う

 

 

まず一つ目に、『本』という造形、その形について、だ

 

本というものを我々が重い浮かべたとき

 

その色やサイズなどは人それぞれだろうが

 

こと『厚さ』というものは、皆おおむね同じくらいではないだろうか?

 

大体、1.5センチ~3センチ

 

我々が『本』というものを思い浮かべたとき

 

そこに含まれるであろう情報量は、おおむねそのくらいを想像するのではないか?

 

ページ数にして200~400ページ程度

 

もちろん、それ以下の厚さの本もあれば、それ以上のページ数の本もあるが

 

重要なのは、そこではない

 

読書が好きな人も、嫌いな人も、本というものを想像したときに

 

皆一様に最低それくらいの情報量を想定するということだ

 

そして面白いのは、読書が嫌いな人のほうが

 

『本』というものを想像したとき、その厚さやページ数を比較的多めに考える

 

つまり、その情報量をやたらと多く、読むのが大変だと認識する傾向にあると思われる

 

そうした先入観や、ある種偏見とも受け取られる認識から得られるものは何だろう?

 

それは『書物』という道具に対する、絶対的な情報量への信頼ではないだろうか

 

 

僕自身、学生時代は読書というのが苦手だった

 

その理由として、「何か難しそう」「面白くなさそう」「面倒くさそう」

 

といった漠然としたイメージがあった

 

多くの読書嫌いが挙げる理由とほとんど同じだろう

 

だが、それらの理由こそまさに『本』というものの

 

情報量の多さと、ある種の高い専門性への『信頼』の裏返しではないだろうか

 

「専門性が高い」から「難しい」

「勉強になる」から「面白くない」

「情報量が多い」から「面倒くさい」

 

決してそうとは限らないのだけれど、一般に考えられるそうしたイメージこそが

 

『書物』を人間の叡智の権化として神格化させているのではないだろうか

 

そして、読書が嫌いな人の一部が「本くらい読まないとな」と

 

ある種の強迫観念に囚われている

 

そこには「向上心」という人類としての、あるいは生物としての本能的な欲求があり

 

その視覚化できる。「解りやすい手段」として読書があるのだ

 

そして、次に挙げる理由も、それに関連している

 

 

二つ目に、『読書』というその一連の動作における「面倒くささ」だ

 

あるいは「不便さ」、「回りくどさ」と換言してもいいかもしれない

 

『本を読む』という行為には、それなりの準備と手順が伴う

 

まず当たり前のことだが、『本』を持っていなくてはならない

 

(そりゃそうだ)

 

だが、近現代において、何か一つの娯楽

 

しかもそれがただ「読む」というだけの行動に対して

 

わざわざ事前準備が必要というのはいかがなものだろうか

 

 

暇つぶしのための娯楽ならば、我々が普段持ち歩いているスマホの中に

 

無限に内蔵されているだろうし、それこそワンクリックでアプリをダウンロードすれば

 

もうそれで簡単に、そのコンテンツを享受することが可能だ

 

それに対して(もちろん読み物のアプリなんかもあるだろうが

 

ここでは実物の『本を読む』という行為に限定する)

 

ただ一つの用途にしか使用できないものを

 

わざわざ持ち歩かなくてはならないという不便さといったらない

 

しかも、それなりに嵩張るものだし

 

当然ながら一冊の本には一冊分の情報しか含まれていない

 

それが、どれだけ時代に逆行するものであるかは考えるまでもない

 

 

だが、その『読書をする』行為の面倒くささこそ

 

『儀式』めいた読書の魅力なのではないだろうか

 

そこには、人間は『忘れる』生き物だということが大いに関係する

 

 

我々は忘れる生き物だ

 

良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、忘れてしまう

 

『喉元過ぎれば熱さを忘れる』という諺の通り

 

それは防衛本能として必須のものなのだろうが

 

それにしては社会生活、あるいはそのための『学び』において

 

覚えておかなければならないことが、あまりに多くあり過ぎる

 

そして厄介なことに、『記憶』というものは意識的に取捨選択できるものではなく

 

覚えていたいこと、つまり有益な『知識』に限って簡単に忘れてしまうことが多々ある

 

だから『勉強』と聞くと、誰もがその反復性に辟易とさせられる

 

一度では身につかず、何度も何度も反復し、そうしてようやく自分の財産となる

 

『読書』というのは、そうした人間の特性に対してまさにピッタリなツールなのだ

 

 

もちろん、読書をしたからといって、一度で知識が身に付くわけではない

 

それは、他の情報コンテンツと同じだ

 

だが、読書には他のコンテンツと大きく違った、アナログならではの蓄積がある

 

それは、読んだ本がそのままの形で『残る』ということだ

 

 

読み終えた本は、手放さない限りあなたの手元に残り続ける

 

ずっしりとした重さで、並べればそれなりに場所を取り、持ち運びはそれなりに不便だ

 

だが、その視覚化できる『蓄積』こそが、あたかも知識が増えたように『錯覚』させる

 

そう、あくまで錯覚なのだ

 

蔵書量が知識の総量でなければ、もちろん読了した本の内容が血肉となるわけでもない

 

だが、我々の不確かな『記憶』という機能において

 

目に見える『蓄積』というもののいかに心強いことだろうか

 

本はそうした、『知識の増量』のある種の比喩として機能する

 

そして、本を広げる、ページを繰る、本の匂いをかぐ

 

といった、一連の動作こそが、まさに儀式的な意味を持ち

 

『知識の蓄積』を錯覚として実感させるのではないだろうか

 

 

そして三つ目は、やや視点を変えて

 

本を読む側ではなく『書き手』としての心理について考えてみよう

 

 

そもそも『本を出す人』というのは、どういった種類の人間だろうか?

 

小説家など、本を書くことを生業にしている者は別として

 

学者や評論家など、自分の研究の成果や主張などを発表するとき

 

やたらと『書物』という媒体を用いる

 

もちろん、学会への発表などについては違った形式を取るだろうが

 

「世間に向けて広く発信する」という方法においては

 

必ずといっていいほど、『出版』という形が用いられる

 

そして、成功者や有名人なんかも、なぜかこぞって本を出したがる

 

他に媒体のなかった十数年前だったら、それもわかるが

 

今やネット上でいくらでも、より簡単に、低コストで情報を発信できる

 

(もちろん出版社からの働きかけなんかもあるだろうが)

 

それにしても、なぜそれだけ多くの人が本を出したがるのだろう?

 

 

『本を出す』という行為、そこにはもちろん商業的な意味合いもあるだろう

 

だがそれだけではない付加価値があるのだ

 

それは『権威』の獲得である

 

全く同じ情報だったとしても、出版とそれ以外の発信方法では

 

そこに含まれる『信頼性』が大きく異なる

 

 

思えばそれも当たり前で、『出版』にはそれなりのコストがかかる分

 

自費出版という形が取られることもあるが、多くの場合には出版社が付く

 

そして、出版社の名前は本の表紙にきちんと明記される

 

それは責任を担保するという意味でもあり

 

それなりに整合性が取れたものであるかを編集者が判断する

 

つまり、ネット上に無責任に載せられた誰のものとも分からない

 

出所不明の記事に対して『信頼性』の面で、大きくアドバンテージを取ることができる

 

 

もちろん、本からの情報だって間違っていることはある

 

だが真偽はこの際、問題ではない

 

重要なのは、本にはそれだけの『信頼性』があり

 

本を出すという行為には『権威性』があるということだ

 

 

例えば「勉強する」といって、ネットを閲覧していたとする

 

それを聞いて、多くの人は「勉強していない」と判断することだろう

 

「なんだ、『勉強する』ってのは嘘で、遊んでいるだけか」と

 

それもおかしな話だ

 

今やあらゆる情報があふれていて、何かについて詳しくなろうと思えば

 

YouTubeでそれなりの知識を得ることができる

 

だが「YouTubeを観た」と聞いて、「勉強したんだ」と思う人間は少ないだろう

 

ではそれが「本を読んだ」ならどうだろう

 

もちろん、漫画や雑誌も広義の意味では『本』だ

 

あるいは小説かもしれない

 

だが「本を読んだ」と聞けば、それが容易に「勉強」に結びつく

 

子供の頃に「本を読みなさい」とよく言われた方も多いだろう

 

それこそが『読書=勉強』というイメージであり

 

つまり本というものは、『書き手』にも『読み手』にも権威性をもたらすのだ

 

 

以上のことから、『本』は他のコンテンツには代替できない『価値』がある

 

そして、それは『人間の叡智』というものの象徴であり、視覚化なのかもしれない

 

だからこそ、利便性という理由だけでは淘汰されず

 

人間が長い歴史の中で培ってきた『本能』とは違った『習性』のようなものが

 

分厚い、その形に込められているのかもしれない

世界最大の信徒数を誇る『宗教』とは何か?

 

世界一の信徒数を誇る『宗教』とは何だろう?

 

仏教?キリスト教?いや、実は我々が知らないだけで、実はイスラム教だったり?

 

『宗教』と聞くと、我々日本人はどうしても身構えてしまう?

 

まるで、胡散臭い儲け話でも聞かされたように、「騙されないぞ」と疑いの目を向ける

 

その原因の一つはやはり、平成のとある新興宗教

 

そして、その信者たちの起こした凄惨な事件にあるだろう

 

 

しかし、そんな日本人は宗教と無縁の生活を送っていると思いきや

 

新年早々、人混みに揉まれながら初詣に行くし

 

クリスマスを祝えば、結婚式は教会で挙げ、葬式は仏教によって弔われるなど

 

人生の節目節目に、あるいは日常の事あるごとに、宗教に関わり合う

 

それもまた、信仰心の薄い国民性であるからこそ

 

一つの宗教に染まるわけでもなく

 

様々な宗教的儀式を「良いとこ取り」で享受しているだけなのだ

 

と言われれば、その通りなのであろうが

 

だとしたら、我々は無神論者であるのかと問われれば

 

それもまた微妙なところである

 

 

困ったとき、苦しい時に祈る神はどのような形態を模しているのかはそれぞれだが

 

それでも『祈る』という行動にかける思いは真摯なものであるだろうし

 

霊魂やそれに付随する不可思議な事象に対する興味は

 

誰もが、多かれ少なかれ持ち合わせているだろう

 

 

今回はそんな『宗教』について取り上げるとともに

 

『信仰』とは何か?その本質に迫ろうと思う

 

そこで冒頭の問いである、「世界最大の宗教とは何か?」

 

 

その答えは、『科学』である

 

 

いや、ちょっと待てと、『科学』は『宗教』ではないと、そう言われるかもしれない

 

だがここは一つ、騙されたと思って

 

(その台詞がすでに怪しい宗教への勧誘手口みたいだ…)

 

あるいは、そういう比喩だと思って

 

科学を一つの宗教だと仮定して、他の宗教との比較を聞いてほしい

 

 

まず、宗教において最も大事な要素の一つ、「神とは何か?」について

 

仏教における神とは、『釈迦』である

 

じゃあ、『仏陀』って何なの?『仏様』って?

 

そういった説明はここでは省かせてもらうことにする

 

 

次にキリスト教における神とは何か?

 

それはそのまま『神』、あるいは『父なる神』である

 

じゃあ、『キリスト』は?『キリスト』は神様じゃないの?

 

実のところ、無知である筆者は恥ずかしながら

 

ある時期まで『キリスト』が『キリスト教』における神なのだと思っていた

 

そして、これも不勉強な筆者は知らなかったことだが

 

実は『ユダヤ教』、『キリスト教』、『イスラム教』は同じ神を信じているらしい

 

それこそが『パレスチナ問題』の原因なのだが、今回はそのことについても触れない

 

 

では最後に、科学における神とは何だろう?

 

その答えは『神は存在しない』だ

 

いや、だからその時点で宗教ではないと思われるかもしれない

 

だが、「存在しない」と考えることもまた、「存在する」と考えることと同じく

 

「そう信じること」なのではないだろうか?

 

だって存在する根拠がない、存在する証拠がない、というかもしれない

 

けれど、それこそがまさに『科学』の得意分野であり

 

「根拠や証拠がないから存在しないものとみなす」というのは

 

科学が勝手に決めた論理であり、その枠内でしか通用しないルールなのだ

 

 

次に信徒数について比較してみよう

 

そもそも正確なデータの算出は不可能であり、概算でしかないのだが

 

『仏教』は4億人、『キリスト教』が20億人、『イスラム教』が16億人とされている

 

そして、実は『ヒンドゥー教』のほうが11億人で『仏教』よりも多い(※wiki 参照)

 

それに対して、『科学』の信徒数は恐らく世界の人口にほぼ等しいだろう

 

なぜならば、それもまた『科学』にあって他の宗教にない特徴の一つであるが

 

『科学』は他の宗教との同時信仰(『兼教』、あるいは『兼信』と呼ぶのだろうか)

 

他の宗教の信者でありながら、『科学』を信奉することを認めているのだ

 

そして、『科学』は積極的な勧誘を行わないかわりに

 

科学における『聖遺物』である『電子機器』や『文明の利器』と呼べる物を使用し、

 

その恩恵を享受する者たちを、片端から信徒と認めている

 

ずるいと言えば確かにずるいが、それこそが『科学』が最大の信徒数を誇る理由である

 

 

では次の比較として、『預言者』についてだ

 

預言者』という言葉にあまり聞き馴染みのない方もいると思うので

 

簡単に説明させてもらうと

 

預言者』とは読んで字のごとく、「言葉を預かる者」であり

 

誰の言葉を預かるのかといえば、もちろん神の言葉だ

 

世紀末に世間を賑わせた『ノストラダムス』は『予言者』であり、字が違う

 

 

ここでは同じ神を信じる宗教である、『キリスト教』『ユダヤ教』、『イスラム教』

 

において、それぞれの預言者を列挙してみよう

 

ユダヤ教』の預言者は、ご存知海が割れるで有名な『十戒』の『モーセ』である

 

キリスト教』の預言者は、そのまま『イエス・キリスト』である

 

イスラム教』の預言者は、元々商人であった『ムハンマド』である

 

この三つの宗教においては、それぞれ成立した順が

 

ユダヤ教』、『キリスト教』、『イスラム教』となっており

 

後に興った宗教では前の預言者を認めつつも

 

先に興った宗教は後の預言者を認めない、など

 

とても複雑であり、それぞれの対立の原因となっているらしいが

 

ここではとりあえず、それぞれの代表的な預言者を挙げるにとどめることにする

 

 

では、『科学』における預言者とは誰か?

 

そもそも「神はいない」という教義の『科学』であるのだから

 

その神からの言葉も、それを預かる者もいないはずである

 

だが、「神からの言葉」をそのまま『真理』というものに置き換えるなら

 

預言者と呼べる存在は『科学』においても存在し、むしろたくさんいる

 

アインシュタイン』なんかは、まさにその筆頭だろうし

 

ニュートン』も、現代でいうと『ホーキング博士』なんかもその一人だろう

 

他の宗教において預言者とは選ばれた唯一人、あるいはごく少数の者だけだが

 

『科学』においては、それこそ無制限に量産されていることになる

 

それはつまり、努力し何らかの成果させ出せば

 

それがそのまま『真理』の片鱗を発見したこととなり

 

預言者』と呼ばれることこそないだろうが、『科学者』として名を残すこととなる

 

 

比較はとりあえずここまでにしておいて

 

つまり何が言いたいのかといえば

 

我々が宗教とは別物だと考えている『科学』も

 

「信仰する」という意味では他の宗教と何ら変わりがなく

 

科学的根拠がないから、とか現実的にありえないから

 

他の宗教を胡散臭い、ただの『創作物』と切り捨てるのは

 

ある宗教が他方の宗教を、「教義にない」と認めようとしないことと同義なのだ

 

科学的根拠も「現実的に」とか「物理的に」とか「生物学的に」とかいう文句も

 

あくまで『科学』の中だけにおける狭義の教義であって

 

そのローカル・ルールをもって他の信仰を踏みにじるのはナンセンスである

 

 

そして、『科学』が信仰の一つであるという証拠に

 

我々人類は、これまで幾度となく絶対的であるはずの『真理』を覆してきた

 

今でこそ『地動説』が当たり前の常識とされているが

 

ある時代までが『天動説』こそが主流であった

 

そして、我々は成長あるいは勉学の過程で

 

「地球は太陽の周りを公転している」という学ぶからこそ

 

『天動説』について、昔の人間の浅慮さを嗤うが

 

ではどれだけの人間が地球が今も公転し

 

地球の外には宇宙と無数の星がある、と実感していることだろう

 

そんなの空を見上げればわかるじゃないか?というかもしれない

 

だがその空が、実は地球を覆う天幕であったとして

 

それが周期的に変化しているだけだったとして、それを否定できる根拠はあるだろうか

 

 

我々は認識によって世界を実感し、世界とはまさに『認識』なのだ

 

『世界五分前仮説』に反証が見当たらないことと同じく

 

我々はいかなる現存の絶対的真実に対する確証を持つことはできない

 

時間の相対性であったり、光の波動性であったり、『不確定性原理』であったり

 

ある時点までは真実に反すると信じられてきた事実が往々にして真実とすり変わる

 

そういう意味では、信仰もまた一つの『真実』であり、『真理』であるとして

 

寛容な心持ちでそれらを受け入れることもまた、ある種の科学的論理性をもった

 

『認識』なのではないだろうか?

 

 

断っておきたいのは、僕は別に、だから宗教を信仰することを推奨している

 

というわけではないということだ

 

僕自身、無神論者であり、正直神という存在を信じ切れてはいない節がある

 

だからといって宗教否定論者になるつもりもなければ

 

信仰者を片端からつかまえて、その科学的無根拠さを説くつもりもない

 

「信じる者は救われる」という言葉にもある通り

 

何かを信じ、それによって困難を乗り越え、生活を豊かにできる者がいるならば

 

それはそれでいいではないか、とあくまで中立的な立場を取っていたいと思う

 

この世界はあまりに理不尽かつ、無数の困難にあふれていて

 

だからこそ『救い』を信仰に求めるのは

 

ある意味では科学的にも正しいことなのかもしれない

 

 

最後に、『宗教』というとてもナイーブで多様性に満ちた内容を扱わせていただいた

 

無学の筆者であるというのは言い訳にもならないだろうが

 

それぞれの宗教について、誤った認識や間違った情報を述べてしまったかもしれない

 

それについて、ここで謝罪させて頂く

 

あくまで、この記事の文章については

 

『科学』と『宗教』という一見相反するように思われる事柄を

 

同じ地平のものとして扱うことで、その本質に迫ろうとするのが狙いである

 

だからこそ、特定の宗教を貶めたり、ましてや否定しようという意図は一切ない

 

どうか、それだけはご理解いただきたい

 

 

そして、人を騙し、あるいは不幸にするだけの宗教じみた詐欺については

 

それに賛同する考えは毛頭ないこともここで断っておく

 

 

もう一つ、実体験から『宗教』というものについて述べさせていただくと

 

知り合いに、いわゆるミッション系大学に通っている者がいた

 

その知り合い自身、特にこれといって『キリスト教』の信者でなければ

 

あくまで大学進学という教育課程において、その大学を選んだというだけの話だ

 

だが、やはりミッション系大学だけあって、宗教の科目が存在し

 

その単位を取得するために、近所の教会で行われる『日曜礼拝』と呼ばれるものに

 

一度だけ参加しなければならない、というものがあった

 

ただでさえ朝の弱い友人である、いくら単位のためとはいえ

 

休日のしかも、それなりに朝早くに礼拝に行くのは億劫であったそうだ

 

そこで、僕がついて行ってやることにした

 

少なからず『キリスト教』というものに、あるいは宗教というものに興味はあったし

 

眠い目をこすりながら、友人と共に教会に行くと

 

休日であるというのに、もちろん何の賃金も支払われないにも関わらず

 

(その考えがすでに俗物的である)

 

二十名近くの礼拝者がいた

 

しかも、我々がその日一日だけの参加であるのに対して

 

彼ら彼女らは毎週、あるいはそれなりの頻度で教会に通っているのだろう

 

年配の方が多かったけれど、それなりに若い夫婦の姿もあり

 

中には小学生くらいの子供までいた

 

信仰とは無関係にその勤勉さ、あるいは実直さ、清廉さに

 

素直に頭が下がる思いがした

 

 

 

 

 

 

 

 

『M-1王者』が得る、本当の副賞とは?

 

さて、前回の記事で『M-1』を始めとする賞レースの王者たちが

 

苦節の末に、その華々しい栄冠を得たにもかかわらず

 

売れない理由、あるいは「売れるとは限らない理由」について話した

 

 

多くの芸人が(例外もあるだろうが)、人気者になるために芸人を志す

 

そして芸能人における「人気者」とは、より具体的にいうならば

 

「老若男女に名前を知られている」ということだ

 

YouTubeや各種動画サイトが台頭し、今やその需要はテレビのそれを上回りつつある

 

しかし、若年層の興味が、「時間的制約」を持たない新興のメディアへと移り変わる中

 

年配層の関心はいまだに、テレビにその中心があるといって良いだろう

 

そして、長年メディアの「第一党」として時代を築いてきたテレビは

 

情報の選択権を放棄した「信者たち」を囲みこみ続けている

 

 

…と、少し話が逸れてしまったけれど

 

つまり、芸人および芸能人における人気者の定義とは

 

やはり「テレビでどれだけ見るか」ということになるだろう

 

 

近年、ネット番組なども増えてはいるが

 

個人発信のチャンネルなどは別にして

 

「番組」と名のつく、ある程度の資本が投下されているコンテンツにおいては

 

出演者は、やはりテレビでの人気を参考にしてキャスティングされていることが多い

 

そこに「ネットならでは」という、付加価値が与えられるだけで

 

やっていることも、顔触れもテレビとは大きく乖離していないように思う

 

 

では、ここで本題に戻るとすると

 

「テレビに出る」ために、芸人を志す者たちにとって

 

必ずしも「安定的出演権」につながるとは限らない賞レースに

 

参加する価値はあるのだろうか?

 

 

前回の記事でも述べたように、その答えは「間違いなくある」だ

 

別にそれは、芸を磨くことに損得勘定を持ち込むべきではない、とか

 

お客さんの笑顔それこそが最高の報酬なのだ、とか

 

そういった精神的、観念的理由から言っているのではない

 

あくまで、もっと即物的に、もっと実質的な理由としてだ

 

 

栄えある、お笑いトーナメントの覇者たちは

  

賞金やトロフィーの他にもう一つ、今後の芸人生活によって最も大切なものを手にする

 

それは「面白い人」というイメージだ

 

 

なんだそれだけか、そんなことは誰でもわかっている、と思われるかもしれない

 

だが、この「面白い人」というイメージこそが

 

「優しい人」とか「強い人」とか「清純そう」だとか

 

世間一般にはびこる他のイメージとは一線を画す、強力な武器となり得るのだ

 

それについて少し説明する

 

 

前者と後者三つのイメージとの大きな違いは何か?

 

それは「イメージの逆転」、つまり「裏切られる可能性」だ

 

いや、その言い方は適切ではない

 

より正確にいうならば、「そのイメージが裏切られることへの期待」だ

 

 

小説や漫画、物語性を持つあらゆる創作物、いわばフィクションにおいて

 

「イメージの逆転」と呼べるものは、かなりの確率で起きる

 

「コイツ、めちゃくちゃ嫌な奴だな」という人物が

 

主人公のピンチの際には颯爽と現れ、カッコいい台詞と共に窮地を救ってみせる

 

反対に、めちゃくちゃ人の好さそうな細目キャラが

 

実は真の黒幕であり、開眼をきっかけに悪逆を露呈する

 

強面の大佐が「俺のズボンがアイス食っちまった」などと、おどけた一面を見せたり

 

いかにもな筋肉ムキムキの大男は真っ先にやられたり、と

 

たとえをあげればキリがなく、そのイメージの逆転がそのまま物語の展開となり

 

時には起承転結における、重大な「転」としての役目を担う

 

 

それらはフィクションの中での出来事だ、と思われるかもしれない

 

しかし、我々はノンフィクション、つまり現実においても

 

「イメージの逆転」を無意識のうちに期待してはいないだろうか?

 

清純派アイドルの密会報道や、好感度の高い芸能人の不倫報道が

 

より加熱的に扱われるのはなぜか?

 

その一つの理由として、我々が心のどこかで「イメージの崩れる瞬間」を

 

少なからず期待しているからだろう

 

そして、「イメージの逆転」は必ずしも、悪転換ばかりを期待するものではない

 

 

たとえば、異種格闘技の大会が行われたとする

 

ボクサー、空手家、柔道家、プロレスラーなど

 

筋骨隆々の、たくましい青年たちが続々と出場する中

 

ふと一人の合気道の達人の参加が決まったとする

 

他の出場者が、まさに現役世代と呼べる脂の乗りきった若者たちである中

 

その達人は見たところただの老人であり、痩身矮躯で

 

どう見ても強そうには思えない

 

ところが、いざ大会に出場すると…

 

 

この「ところが」こそ、まさにイメージの逆転を期待する内なる声なのだ

 

誰も、達人があっけなく倒されてしまう展開など望んではいない


(しかし、そう簡単に「イメージの逆転」が起きないのもまた現実である)

 

 

以上のことから、我々はやはり無意識的にも意識的にも「イメージの逆転」を渇望し

 

むしろ、それが起きて当たり前だろうと思いこんでいる節がある

 

本当は「イメージ」というものについて、まだまだ語るべき内容が沢山あるのだが

 

本題から逸れてしまっているので、それについてはまたいつかの記事で語ることにする

 

話を芸人に戻そう

 

 

では、同じくイメージであるはずの「面白い人」というイメージだけ

 

どうして逆転を期待されないのか?

 

それについては、我々が無意識の内に「つまらない展開」を排斥する傾向にあるからだ

 

「強い人」⇔「弱い人」

「怖い人」⇔「優しい人」

「敵」⇔「味方」

 

多くの物語的展開についてもわかるように、それらはどっちに逆転しても

 

興奮や感動を得ることができる、これを便宜上「ギャップカタルシス」と呼ぶ

 

「⇔」からも分かるように、上記の例においては双方向的、どちらの変化においても

 

ギャップカタルシスを得ることができる

 

 

「面白い人」 「つまらない人」

 

では、この場合どうだろう?

 

「つまらない人」が実は「面白い人」、これについては問題ないだろう

 

『スベリ芸』なんかも広い意味では、ここに分類される

 

(本当はもっと高度なことをやっているのだが、ここでは語らない)

 

では逆に「面白い人」が「つまらない人」というのは?

 

確かに、普段は安定感のある芸人が時にすべってしまい

 

それが笑いにつながる、という展開もあるだろう

 

しかし、それはあくまでその展開、一度きりのことである

 

その証拠に、すべった芸人は次の展開においては

 

やはり「面白い人」に立ち位置を戻している

 

つまり、我々は容易にはその「イメージの逆転」を認めようとはしないのだ

 

そして、「面白い人」と「つまらない人」との間にある逆転の矢印は

 

いつだって「つまらない人」→「面白い人」であるべきで、逆を望んではいない

 

だからこそ、一度「面白い人」というイメージを得ることは不可逆の価値を持つ

 

 

芸人に限らず、表現者として人前に立つ者たちのイメージは

 

最初はゼロ、つまり未認識から始まる

 

そして認識された瞬間、まずは第一印象で暫定的な価値が付与される

 

だが、その価値は容易に逆転可能なものだ

 

そして出番を終えて、そこでより確定的な価値へと収束する

 

だが、それについてもやはり挽回と返上の可能性は等しく与えられる

 

あくまで観測者が毎回公平性を保っていられれば、の話だが

 

 

ここでよく考えてほしいのは、我々は常に公平さを保っていられるわけではなく

 

常に「直接的」に観測しているわけでもない、という点だ

 

我々はしばしば事前情報に左右される生物だし

 

「間接的」に得た情報を、あたかも「直接的」に受け取った事実と思いこむ

 

そして、それ自体は何ら悪いことではなく、むしろ生きていく上で必須の技術だ

 

それが、自分の志や生き方に関わる重大な事項であるならまだしも

 

ただの娯楽である鑑賞に、いちいち主観性と公平性を保とうとすると身が持たない

 

だから我々は、間接的情報をとりあえず、暫定的に受け入れることにするのだ

 

 

何気なくテレビをつけると、ちょうどバラエティ番組が始まったところだったとする

 

MCは見慣れたベテラン芸人、彼らのネタを見た経験はない

 

どんな漫才やコントで人を笑かし、どんな経緯を辿って今の位置にいるのかは知らない

 

だが彼らが「面白い」のは知っている

 

番組内容にもよるが、とりあえずこのまま観てみよう

 

つまらなかったらチャンネルを変えればいい

 

ゲストは若手芸人たち、ネタを見たことがあるのは二、三組だが

 

名前だけならほとんど知っている

 

きっと楽しい展開が待っているだろう、と半信半疑ながらも期待する

 

それがイメージというものの魔力であり、名前を知られていることの強みだ

 

 

そして、ことお笑いにおいて、そのイメージが大事だというのは

 

「笑い」というものの繊細さ、不確定要素の多さにも起因する

 

 

たとえば、素人が『すべらない話』にポッと出で出演したとする

 

名の知れた芸人が周りを取り囲む中、渾身の『すべらない話』を披露したとする

 

(自分がその「素人」だとするとどうだろう?僕なら震える…)

 

ウケるかもしれない、けれど多くの場合はスベるだろう

 

緊張のせいもあるだろう、間のとり方や声のトーン、話の展開のさせ方

 

そういった数々の複合的要素が積み重なり

 

『すべらない(はずの)話』が超電導を引き起こす

 

 

では次に、その番組の猛者たちである『千原ジュニア』や『小藪一豊』に力を借りる

 

彼らの話、まだテレビで一度も話したことのない話を譲り受け

 

その上、イタコか何かの力を使って、生霊である彼らを憑依させ

 

口調、声のトーン、間のとり方などをそっくりそのまま再現したとする

 

だがそれだと「ものまね」になってしまい

 

それでは別の笑いが起きる可能性があるので

 

何らかの大規模な科学技術を使って、視聴者の記憶からお二人の記憶を

 

丸ごと消してしまうことにする

 

果たしてその話はウケるだろうか?

 

そこまですれば、確かにウケることはウケるだろう

 

しかし、その笑いの大きさは本人が話した時と同じだろうか?

 

そんなものは比べようがない

 

それでも、やはり目盛幾分か落ちるだろう

 

その違いは何か、それは話し始めた時の期待度の違いだ

 

「ジュニアの周りには、きっとおかしな人たちがたくさんいることだろう」

「小藪はきっとまた、どうでもいいことに重箱の隅を突くような怒り方をするだろう」

 

という期待、その期待感こそが笑いにおいて重要なフックとなり得るのだ

 

「知っている」ということの安心感、そこから生まれる手放しの期待感

 

前者の素人が、職場で学校で同じ話をしたとする

 

きっとその話は大いに笑いを取ることができるだろう

 

それもまた、聞き手が彼ないしはあなたを「知っている」からこそだ

 

 

我々は「イメージの逆転」つまり「まさかの展開」を期待すると同時に

 

「予定調和」を望んでいる

 

それらは矛盾しているようで、恣意的な感情が介在しているという点では同義だ

 

 

賞レースの王者の真の副賞とは

 

世間一般に対する「面白い人」という暫定的なイメージである

 

だが忘れてはならないのは、そのイメージはあくまで「暫定的」なものであり

 

視聴者が望むならば、その天秤はいかようにも「面白い展開」へと傾くことになる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『M-1』王者は、どうしてテレビで売れないのか?

 

THE MANZAI 2019』が昨日、12月8日(日)夜7時からフジテレビで放送された

 

今年の注目株は何といっても、10年ぶりに新作漫才を披露した『アンタッチャブル

 

テレビで観る機会も多い売れっ子の二人だが、揃ってテレビに出るのは

 

まだ記憶に新しい『全力!脱力タイムズ』での復活劇をのぞけば、実に久しぶりで

 

実力派のベテランコンビがセンターマイクを挟んで立ち

 

一体どんな風に我々を笑かしてくれるのだろうと

 

期待に胸を弾ませていた方々も多いことだろう

 

 

アンタッチャブル』は今さら説明するまでもなく、山崎と柴田による二人組で

 

山崎(その名前よりむしろ『ザキヤマ』という呼び名のほうがしっくりとくる)は

 

いつも適当な返しとくだらないボケ(誉め言葉)を乱発し

 

人のネタをよくパクリたがる人として

 

加藤…いや、柴田のほうは、なぜかやたらと動物に詳しく

 

動物に関する豆知識を教えてくれる人として

 

それぞれが個性の立ったキャラクターで活躍している

 

 

先に述べたように、近年コンビでの仕事がほとんどないせいか

 

あるいは多くの売れっ子がそうであるように、ネタを披露することが少なくなるせいか

 

今となっては知らない人もいるかもしれないが

 

彼らは『М-1グランプリ 2004』の王者でもある

 

 

『М-1』といえば、年末に開催される最大級の「漫才」のコンテストであり

 

お笑いファンのみならず、普段はあまりバラエティを観ないという人でも

 

まず知らない人はいないであろう、というくらいに著名な番組だ

 

昨年、2018年の王者は『霜降り明星』で

 

彼らはこの一年、様々なバラエティ番組にまさに引っ張りだこだった

 

 

さて、そんな『M-1』を始めとする、数々のお笑い賞レース

 

キングオブコント』、『R-1ぐらんぷり』、『NHK 上方漫才コンテスト』など

 

コント、漫才といった、いわば芸人の本職である「ネタ」で、栄光を勝ち取った者たち

 

の間で囁かれる、ある「苦悩」をご存知だろうか?

 

 

それは「賞レースの優勝者は、なぜか売れない」というジンクスだ

 

汗と涙の滲む努力の末に、ようやく手にした栄冠

 

これでやっと、長い下積みと貧乏から解放されて、一躍人気者へ

 

と思った矢先、チヤホヤされたのは賞レース直後だけで

 

その後のテレビの露出は思ったより増えなかった

 

歴代の王者たちが自虐まじりに、そのようなエピソードを話しているのを

 

聞いたことがないだろうか?

 

そして、似たような話として最近よく聞かれるのが

 

キングオブコント』において、なぜか二位ばかりがもてはやされる

 

という、これもまた理不尽で悲しいジンクスである

 

 

では一体なぜ、このようなことが起こるのだろう?

 

 

たとえば、スポーツの大会などを見てみると

 

当然のごとく、成績上位者のほうがフィーチャーされる機会が多い

 

オリンピックについても、銀メダルより金メダルが話題となり

 

(もちろん自国の選手であることが前提で、競技による人気にも左右されるが)

 

レコード大賞』や、今は無き『有線大賞』といった音楽の分野においても

 

芥川賞』や『本屋大賞』といった小説の分野においても

 

やはり「一位」が、順当にその恩恵を受けることとなる

 

 

それなのに、ことお笑いの分野においては

 

二位や三位、あるいはそれ以下の順位者が一位の露出を上回ることが

 

しばしば起こり得る

 

それはどうしてなのだろう?

 

 

※『M-1グランプリ歴代王者』(ザ・テレビジョン参考)

 

2001『中川家

2002『ますだおかだ

2003『フットボールアワー

 

2015『トレンディエンジェル

2016『銀シャリ

2017『とろサーモン

 

 

以上にあげたものは、『M-1』の歴代王者の初代から数えて三組と

 

直近の三組(先に紹介した2018を除く)である

 

このリストを見てわかるように、少なくとも『M-1』については

 

一位が売れない、なんてことはけっしてなく

 

統計的に見るまでもなく、「二位以下優位のジンクス」は当てはまらない

 

どの王者も、知名度のある大人気コンビばかりで

 

一時期の人気の上下はありつつも、少なくとも

 

「人気の高低差ありすぎて、耳キーンなるわ!」なんてことはない

 

 

では、なぜ『一位が売れない』なんて

 

根も葉もないジンクスが囁かれることになったのだろう?

 

 

それについては「芸人」という職業柄、あるいは立ち位置に起因する理由も多いだろう

 

一般的に笑いを取る手法は無数に存在するが

 

その一つとして、「自分の立場を下げる、あるいは一旦持ち上げ急激に落とす」

 

ことによって、その滑稽さで剽軽者を演じるというものがある

 

バラエティ番組でのトーク展開においても

 

「自分たちは○○の王者で、そのおかげで人気者になりました」と話すより

 

「自分たちは○○の王者なのに、これといって人気がありません」と話したほうが

 

より簡単にオチがつくことになる

 

だから芸人としては、順当な待遇より不当な扱いの方がよりオイシイのだ

 

 

そして、もう一つの理由としては「一位だけが売れるとは限らない」ということだ

 

そもそも芸人にとっての「売れる」とは一体なんだろう?

 

ミュージシャンでいえば、CDの売り上げ枚数、ライブの動員数などで

 

比較的、客観的な数値で指標を視覚化することが容易だ

 

けれど、芸人についてはそう簡単にはいかない

 

確かに、DVDの売り上げ、コントライブの動員数など

 

数字で表される客観的情報がないわけではない

 

しかし、我々が芸人の人気を概算するときに用いるのは

 

それらの数字的指標ではなく、「テレビでどれだけ見るか」という

 

より複雑で、曖昧な指標に頼らざるを得ない

 

テレビにおいても、視聴率という数字上のデータは存在し広く知られてはいるが

 

そのデータはいわば副次的なものであり、さらにそれは多くの要素が絡みあう

 

(たとえば、企画自体の面白さだったり、時間帯だったり)

 

もので、視聴率だけで一芸人の人気を判断することは難しい

 

 

そして、その「テレビでどれだけ見るか」という曖昧な基準で判断される

 

芸人の売れた、売れないの評価こそが

 

今回の表題と密接に関係している

 

 

そもそも、よく考えてもみてほしい

 

M-1』は何の大会で『キングオブコント』は何の大会であるかということを

 

それらは、それぞれ漫才とコントの大会である

 

つまり、その王者や決勝進出者たちは、漫才やコントのスペシャリストたちなのだ

 

では次に、我々がよく観る番組、それらは一体どんな内容の番組だろうか?

 

芸人たちがネタを披露する番組がないわけではない

 

けれど、いわゆるゴールデンタイムに放送される番組は

 

大別すると、その多くが「トークショー」である

 

そこでは、ある一定の流れやテーマによってトークを展開し

 

MCからの振りに答え、場を盛り上げていくスキルが求められる

 

 

そう、漫才やコントとはある種違う競技なのだ

 

芸風によって、漫才を得意とするコンビもあれば、コントを得意とするコンビもある

 

漫才が達者だからといって、コントが巧みだとは限らず、もちろんその逆もあり得る

 

それと同じで、漫才やコントができるからといって、トークが上手いかといえば

 

それはまったくの別問題なのだ

 

 

かといって、それらに共通する部分がないわけではない

 

間の取り方、声のトーンなど、「面白い」と思わせるために必要な技術やセンスは

 

そこに明確なものはないにせよ、共通する部分はいくつも存在する

 

けれど、やはりそれらは別物であり

 

バラエティのおバカキャラ

 

漫才のボケよりは常識人でなくてはならず

 

エピソードトークの登場人物は

 

コントのキャラクターよりは現実味を帯びていなければならない

 

 

たとえば、あるコントの父親がいたとして

 

コント内でのボケをトークとして話すと以下のようになる

 

 

「ほら、よく昔のドラマとかで殴るふりをするとき、拳に向かって『ハァ~』ってするでしょ?ウチの父親、あれ『フゥ~』って息を吹きかけるんですよ。おかしいでしょ?熱いのかって!お前の拳は『おでん』なのかって!」

 

 

これを聞かされて、多くの人は「それ本当?造ったでしょ?」と思うことだろう

 

その通り、コントというのは作られた虚構であり、嘘の現実なのだ

 

ボケ役が少し変な、日常的に見ればだいぶ変な人物を演じ

 

ツッコミ役が、観客目線の一般常識人としての視点を持ち

 

心境を代弁することによって、共感とカタルシスを得ることができる

 

そうして「笑い」という万人の感情へと帰結するのだ

 

そして、ネタの中では許されていたフィクションも

 

それがノンフィクションのものとなれば、許容の範囲はぐっと狭まり

 

より現実的な、もう少しはまともだけれどやはりズレているという

 

絶妙なラインが求められることとなる

 

 

それはもはや、同じ「お笑い」という大枠の中でも全く違うジャンルである

 

同じスポーツでも、サッカーと野球が全く違うルールの競技であるように

 

 

そして、さらに難しいのは、ネタの中では感じられなかった

 

芸人自身のポテンシャルがバラエティにおいて花開くということもある、という点だ

 

コントの設定としてはあり得なかった、ただ名前を間違えられるというボケに対して

 

自分の名前を大声で叫ぶ、というツッコミで、定量的な笑いが得られることもある

 

ネタの中では鋭いツッコミを冴えわたらせつつも

 

その実、本人こそがまさに突っ込まれるべき存在であることもある

 

そのように、笑いの手法は多種多様で

 

ボクシングや柔道を漫才やコントとするならば

 

バラエティは総合格闘技であり、これまでは日の目を見なかった者たちが

 

大いに台頭してくることが往々にしてあるということだ

 

 

ミュージシャンは曲が素晴らしく、演奏技術や歌唱力

 

あとはライブMCなどが優れていれば、それだけで普遍的な評価を得られ

 

小説家はたとえトークがつまらなくても

 

紡ぐ物語や描く世界観が美しければ、他に何も求められず

 

スポーツマンはその種目や競技において優れていれば

 

基礎的な運動能力の何かが欠けていても問題はなく

 

政治家は尖った発言さえしなければ、任期を無事終えられる

 

 

それに対して、芸人という職業は本来自分たちが研鑽を重ねた技術でないところで

 

評価され、「消えた」などと後ろ指をさされる

 

何と因果で、難しい職業なのだろう

 

 けれど、それもそのはずで「笑い」という人類だけが持ち得る

 

反射的反応に積極的にアプローチ(しかも、そのツボは人によって異なる)し

 

その結果として対価を得るという職業が簡単なものであろうはずがないのだ

 

そう考えると、テレビでよく観る芸人というのは

 

それぞれが、その狭き門を潜り抜けたバラエティのスペシャリストたちなのだ

 

 

と、ここで一つ疑問が残る

 

先に述べたように、バラエティでの活躍がネタの完成度と必ずしも比例しないとなると

 

数多ある賞レースは、それ自体が人気番組であることの他に

 

芸人にとってはその受賞に何の意味も見いだせないのだろうか?

 

結論からいうと、そんなことはけっしてない

 

その理由については次回の記事で解説することにする